その結果、1980年代には「24時間戦えますか」というCMが流行し、「過労死」という言葉が生まれた。働きすぎて死ぬ、という現象に名前がついたのだ。「karoshi」はオックスフォード英語辞典オンライン版にも載っている。侍のつもりで商人をした結果が、過労死だった。
ただし、「働きすぎて死ぬ」という表現には注意が必要だ。過労死の遺族たちは、これを「自分で働きすぎた結果」ではなく「働かされて死んだ」、つまり他殺だと捉えている。実際、過労死等防止対策推進法(2014)の成立は、遺族たちの運動によるものだった。「死ぬまで働いた」のではなく「死ぬまで働かされた」。この視点を欠くと、責任の所在が曖昧になる。
労働の美徳を他人に
押しつける傲慢さ
ところが2025年、高市早苗首相は自民党総裁に選出された際、「全員に馬車馬のように働いてもらう。私自身もワーク・ライフ・バランスという言葉を捨てる。働いて働いて働いて働いて働いてまいります」と宣言した。この発言は新語・流行語大賞を受賞したが、過労自殺の遺族たちは「こんな言葉が独り歩きしては過労死はなくならない」と記者会見で懸念を表明した。
高市首相本人は「働きすぎを奨励する意図はない」と釈明したが、問題は意図ではない。一国の首相が公の場で「働いて働いて働いて」と繰り返すこと自体が、「働くことは良い」というメッセージを社会に発信することになってしまう。
たとえ自分に向けて言っているつもりでも、その言葉は他人の耳にも届く。働けない人、働きすぎて壊れた人、働かされて死んだ人の遺族。その方たちにその言葉はどう響くか。「働いて働いて働いて」は、自分に言い聞かせるだけでも害悪だし、公の場で発することはなおさら害悪だ。
そもそも、「働くことは良い」という感覚は、自然なものではなく、歴史的に作られてきたものなのだ。宗教的な背景、国家の政策、企業の論理、それらが絡み合って「勤勉」を道徳に仕立て上げた。だから私たちは、その道徳を相対化する必要がある。働くことが良いのではない。働かなければ生きられない制度のもとで、人々が働いているだけだ。
「働くのが好き」と言える人は、たまたま自分に合った仕事に就けた幸運な人か、あるいはそう思い込むことで日々をやり過ごしている人だろう。どちらにせよ、それを普遍的な美徳として他人に押しつけるのは傲慢だ。







