トレーの下の
制度は皆違う
生活していると、そういった資源の分配や土台の話を実感する場面がある。私の働く大学の学食で、学生たちが持つトレーの上には同じA定食が載っている。しかし、払うお金の出どころは違う。誰かは親の口座から、誰かは自分のバイト代から、誰かは貸与型の奨学金から。
トレーの上は同じでも、トレーの下にある制度が違う。学費、賃金、税、親の補助。それらは見えにくいから、「節約」や「自己管理」の話にすり替わりやすい。制度の問題が、個人の選択の問題に見えてしまう。だからこそ、トレーの下を可視化する必要がある。
奨学金という名の学生ローンを背負って大学を出た若者が、返済のために好きでもない仕事を続けざるを得ない。介護のために離職した人が、再就職できずに貧困に陥る。非正規雇用のまま年齢を重ね、正社員への道が閉ざされる。これらは個人の選択の失敗ではなく、制度の設計の問題だ。個人の努力で乗り越えられる場合もあるだろうが、それを全員に求めるのは酷だ。
誰かが声を上げれば
制度は変えられる
学費、最低賃金、税、社会保障、医療、住まい、労働時間規制。それらはすべてトレーの下の制度だ。制度が今のままなら、働くことは「生きるための通行料」のままだ。制度が変われば、働くことはもう少し無理のない選択になるかもしれない。制度を変えることは難しい。でも、不可能ではない。週休2日制も、有給休暇も、最低賃金も、かつては存在しなかった。誰かが「おかしい」と声を上げ、少しずつ変わってきた。
「親ガチャ」と呼ばれる運不運を個人の徳で上書きするように「そんなこと言っちゃいけないよ」と言う前に、働きたくないと言う人に怠け者の烙印を押す前に、そう言わせている制度に目を向けたほうがいい。「働きたくない」という気分は、不真面目の徴ではない。制度が悪いというのは言い訳ではなく、事実だ。
「働きたくないのに、なぜ働くのか」。今の私が言えるのは、せいぜいこうだ。働かないことをうらやましく思いながら、働いている。働くことを嫌だと思いながら、働いている。そこで「働きたくない」と言うことを、そう言っている人を、自分を、厭わないようにしてほしい。
『生まれたくなんかなかったのに』(小島和男、幻冬舎)
「働きたくない」と口にすることは、怠惰の表明ではなく、制度への異議申し立てだ。その声が広がれば、制度は少しずつ変わる。実際、週休2日制だって、かつては「そんなに休んで仕事が回るのか」と言われていた。有給休暇の取得も、かつては「周りに迷惑をかける」と遠慮されていた。当たり前は、変わる。変えることができる。
みんながそう思うようになれば、みんなの休日が増えれば、社会はもう少し楽になるのではないだろうか。働かない日があっていい。休みは多いほうがいい。有給は遠慮なく使っていい。
その当たり前を、当たり前として言える社会に近づけたい。生まれてしまった以上、せめて少しでもましな制度のもとで息をしたい。それは贅沢な望みではないはずだ。







