「顧客が常に正しいとは限りません」──。2011年の初版刊行以来、世界で読み継がれてきた書籍『カスタマーセントリシティ』は、この一文から始まる。
著者のピーター・フェーダー教授は、ペンシルベニア大学ウォートン校で教鞭を執る顧客生涯価値(CLV)研究の世界的権威であり、予測分析企業ゾディアック(2018年にナイキが買収)や顧客ベースの企業価値評価に特化した「シータ」の共同創業者として、理論の実装にも深く関わってきた。
本書では、従来の「よい製品さえ提供できれば、顧客はついてくる」という製品中心主義とは一線を画し、顧客一人ひとりの違いを起点に、CLV(顧客生涯価値)に基づき「正しい顧客」に集中することが「顧客中心主義」(カスタマーセントリシティ)だと定義している。
フェーダー氏は「顧客サービス」と「顧客中心主義」はまったく異なる概念であると明確に区別している。そして多くの企業がこの両者を混同していると指摘し、この区別に光を当てることが経営の最優先事項であると提案する。
邦訳刊行を機に来日したフェーダー氏に、日本の経営トップが本書から学ぶべき顧客中心主義の本質を聞いた。
成功のための新たなモデル「顧客中心主義」
恐怖からではなく、選択として始める
編集部(以下青文字):なぜいま、日本の経営トップが顧客中心主義に向き合うべきなのでしょうか。日本には従来から「よい製品やサービスを提供すれば顧客はついてくる“製品中心主義”」という固定観念が根強くあります。
フェーダー(以下略):いま「固定観念」「従来」という言葉を使われましたね。しかし、いまは従来の時代ではありません。まったく異なる時代であり、私たちが従来の時代に戻ることは二度とないのです。
だからこそ、ビジネスの実践も時代とともに進化しなければなりません。
顧客中心主義は、すでに起こっている自然な進化です。この変化が不可避であることを理解したうえで、より速く、より効果的に、そして誇りと確信を持って進めるべきです。
本書では「製品中心主義はもう機能しない。基盤に亀裂が入っている」と、恐怖と切迫感に訴えています。その認識自体はいまも変わりません。
しかし大切なのは、企業が製品中心主義で行くのか、それとも顧客中心主義へと切り替えるのか、企業がみずから選択することです。たとえ製品中心主義だけで十分機能していたとしても、顧客中心主義のアプローチによって、より効果的に経営し、ステークホルダーを味方につけ、顧客を喜ばせることができます。切迫感からではなく、意志を持って取り組んでほしいのです。
導入を急ぐのではなく、あえて十分な準備を踏んでから進めるべきだ、ということでしょうか。
もちろん、スピードを持って進めるべきです。ただし、成果までがスピーディーに得られるわけではありません。速く進めるべきは、組織の変革、考え方の転換、測定方法の見直しといった内部の変革です。
私は長期的な価値をもたらす指標を用いますが、それと同じように、企業は顧客中心主義のために長期的な投資をしなければなりません。明日にも素晴らしい成果を得られると期待したら、きっと失望することでしょう。
では、いまから顧客中心主義を始める企業と、現状維持を続ける企業とでは、10年後にどのような違いが生まれるのでしょうか。
究極的な差は、収益性と財務の健全性に表れます。しかし、その過程でも多くの違いが見えてくるはずです。
組織構造が変わり、KPIや評価指標が変わり、顧客との関係のあり方が変わり、プロセスが変わる。たとえば製品の開発やサポートの進め方は、全く異なるものになるでしょう。
ただし、変化があまりにも多岐にわたることこそが、顧客中心主義の難しさでもあります。これは全社的・包括的な経営戦略ですから、どこから着手すべきなのかは企業によって大きく異なります。
すべての企業に当てはまる単純なレシピは存在しません。なおかつ、成果は一夜にして現れるものでもありません。
しかし、辛抱強く、一貫して、開かれた姿勢で取り組めば、その先にあるリターンは並外れたものになることが実証されています。
ペンシルベニア大学ウォートンスクール教授ピーター・フェーダー
PETER FADERペンシルベニア大学ウォートンスクール教授。専門は、消費者の購買行動を理解・予測するための行動データ分析。通信、金融サービス、ゲーム・エンターテインメント、小売、製薬など幅広い業界の企業と協働してきた。顧客関係管理(CRM)、顧客生涯価値(CLV)、新製品の販売予測といったテーマに焦点を当てる。2015年に予測分析会社ゾディアックを共同創業し、同社は2018年ナイキへ買収された。顧客ベースの企業価値評価に特化したシータの共同設立者。近年は「インセンティブ整合型ピア評価システム」の普及を目的としてインコンパスを共同創業した。2017年、「マーケティング・テクノロジーの先駆者25人」の一人に選ばれる。
お客様は「ひとりの神様」ではない
顧客の多様性を明確に捉え、平等に敬う日本的意識を変える
日本には「お客様は神様」という言葉があり、すべての顧客を分け隔てなく遇する「おもてなし」の文化が深く根づいています。そこに「すべての顧客は平等ではない」という考え方に切り替えるためにはどうすればいいでしょうか。
2つのまったく異なる答えをお示ししましょう。
まず1つ目。「お客様は神様」という考え方に、あえて同意することから始めます。ただ、この言葉は顧客を単数形で語っていますね。実際には顧客は無数に存在し、一人ひとりが異なる神様でまさに「十人十色」です。
その違いを認識することは、顧客の多様性への敬意であると同時に、全員を平等に扱うよりもはるかに効果的な経営につながります。
かつて企業は、顧客一人ひとりの違いを見ることができなかったため、全員をできる限り丁寧に遇するしかありませんでした。しかし今日、私たちには違いが見えます。
顧客はそれぞれのやり方で幸せになりたいのだと理解し、必要な投資の種類も異なれば、得られるリターンも異なります。その違いを認識し最大限に活かすことが、企業自身と顧客の双方に対する責務なのです。
そして2つ目。こちらは物議を醸すかもしれません。多くの企業にとって「お客様は神様だから、価値の高い顧客なのか否か測定できないし、顧客ごとに扱いを変えることもできない」というのは単なる言い訳です。
従来のやり方に問題があると薄々わかっていても、慣れ親しんだやり方を手放したくない。顧客ごとに対応を変えるのは面倒だから最初からやりたくない。それが実態ではないでしょうか。
しかし日本でも多くの企業が、もはやその言い訳では通用しないという現実に目覚めつつあります。顧客の違いに踏み込み、それを事業の成長と測定に活かす世界の企業に、競争力で後れを取り始めているからです。
顧客エクイティを超えて──財務の言語で語る
教授は、顧客基盤全体のCLVの総和である「顧客エクイティ」こそが企業価値の源泉だと論じてこられました。CLVを経営やIRの中核指標に据えると、意思決定はどう変わりますか。
CLVという言葉が、私とあなただけではなく、すべての経営者の語彙になるべきであり、単に語るだけではなく、行動に移す対象としなくてはなりません。
ただ問題は、この概念がマーケティング部門のみに響きがちなことです。CLVは、組織の誰にとっても等しく重要なものにしなければならないからです。
まずは財務から始めましょう。CLVを財務部門にとって絶対的に重要なものとして再定義する必要があります。
実はこの点は、初版を執筆以来、私自身の考えが大きく変わったところです。顧客エクイティは当初、財務部門を巻き込むためのコンセプトでしたが、期待したほど彼らには響きませんでした。
初期の顧客エクイティ論では、単にCLVを足し上げるだけで、財務・会計の視点が欠けていたのです。その生涯価値を生み出す資金はどこから来るのか。資本構成を考慮し、顧客からの収益と同じくらい、資本の源泉とコストを重視しなければなりません。
そこで今日では、顧客エクイティを超えて、「顧客ベースの企業評価(CBCV)」というより広く、より精緻な概念へと進化させました。
プライベートエクイティや投資銀行が、マーケターと同じようにこの考え方に価値を見出してくれていることは重要な前進です。現在の私の仕事の多くは、むしろ金融・財務の領域に軸足を置いています。
巨額のCRM(顧客関係管理)・DX(デジタルトランスフォーメーション)投資が成果を生まない、という悩みは日本の経営層からも絶えず聞かれます。
実に悩ましい問題です。ほかの質問には「この15年で大きな進歩があった」と答えられるのに、このテーマだけは進歩がない。むしろ悪化していると言えます。
原因はAIの台頭です。企業はAI関連のCRMに巨額を投じるようになり、金を注ぎ込めば魔法のように良いことが起こると信じてきました。AIに対する企業の期待は、これまでも裏切られてきたし、これからも裏切られます。何を優先し、どこに投資し、その効果をどう測定するかを考えずにいると、何の成果も生み出せません。
さらに懸念すべきは、日本の状況が欧米より深刻になりかねないことです。顧客中心主義への理解がある程度浸透した欧米の市場では、CRMを賢く使う素地ができつつあります。
しかし日本で勢いのまま巨額投資に走れば、失望も浪費もより大きくなる。その失敗が、根づく前の顧客中心主義という概念自体の評判を損ねてしまうことを危惧しています。
だからこそ私は日本企業にこう言いたい。「待ってください。まず考え、計画し、投資の費用対効果を測定しましょう」と。
日本ではまだ「顧客中心主義を始めました」と宣言する企業自体が少なく、保険会社など一部にとどまります。浸透させるにはどうすればよいでしょう。
私はマーケティングの教授になる前、保険業界のアクチュアリー(保険数理士)を目指していました。アクチュアリーは、人がいつ亡くなるか、いつ事故に遭うかを予測するモデルをつくり、高い説明責任のもとで事業のあらゆる意思決定を支えています。
私がやりたいのは、まったく同じことです。同じ数学、同じ発想です。保険業界で当たり前のことを、あらゆる業界の当たり前にすればよいのです。
大谷翔平がいるドジャースは、顧客中心主義へと変貌しつつある
教授はロサンゼルス・ドジャースやフィラデルフィア・フィリーズなど、メジャーリーグベースボール(MLB)の世界でも顧客中心主義の実装に関わってこられました。マイケル・ルイス著『マネーボール』以降、球団は選手分析に莫大な投資をする一方、ファン側への投資は長く不足していたと指摘されていますね。
『マネーボール』がこの種の問題意識を高めてくれたことは事実です。ただ、本も映画も完全に選手側に偏った内容でしたね。マネーボールの手法は、大谷翔平のような選手を発掘し、評価することに貢献していますが、顧客中心主義の視点に立てば、チームはさらに多くの利益を得られるはずです。偉大な選手を高年俸で擁し、ワールドシリーズを制する。それだけでしょうか。
ファンがスタジアムに足を運び、チケットやグッズを買い、飲食し、放映権の契約やスポンサーとのコラボレーションが生まれることで利益が生まれる。よって球団は選手の獲得や育成に投資するだけではなく、ファンや来場者、スポンサーといった顧客への投資もしっかりとやるべきです。球団にはプレーヤー側の人材育成と同じくらい、運用するビジネス側の人材が重要であると主張しています。
ウォートンスクールの教授として最も誇らしいことがあります。それは、エグゼクティブMBAの教え子に、フィリーズでチーム編成トップを務めるサム・フルド氏がいます。およそ1年前、私はドジャースのビジネスオペレーションを統括するロイス・コーエン氏と彼を引き合わせました。以来、2人は常に対話を重ね、互いに学び合い、両球団のビジネスを進化させています。
顧客に関するデータと分析が、野球チームに限らずあらゆる組織を変革しうることを、私自身も彼らから学ばせてもらっています。2人からは「あなたの教え子をもっと採用したい」と言われていますね。
15年前に私がこの構想を語り始めたころ、プロスポーツ界は「ファンは神様だ。データやアルゴリズムでファン体験を台なしにしたくない」と否定的でした。
しかし今日、ファン体験はかつてなく向上し、ファンの満足度は高まり、球団経営はかつてないほど安定しています。すべての関係者にとってウィンウィンなのです。

最初の一歩は、ビジネスモデルではなくカルチャーの構築
顧客中心主義は単なるマーケティング施策やスローガンではない、と教授は強調されています。経営トップは何から着手すべきでしょうか。
私はビジネスモデルの開発者ですから、答えはいつも「ビジネスモデルから始めなさい。CLVを正しく測定すれば、空から金が降ってくる」でした。しかし、その答えは誤りだったと今はわかります。
正しい出発点は、カルチャー(企業文化)であり、文化の醸成こそが最初の仕事です。それぞれの会社に適したカルチャーを正しく確立してから、ビジネスモデルの開発と実装に進むべきです。
それは日本も例外ではありません。まず文化とは何かに取り組み、社員の納得を得て、それが自分たちの利益になること、全社的な戦略であることを理解してもらう。そのうえでビジネスモデルに戻ればよいのです。
しかし、カルチャーの浸透こそが最も難しいのではないですか。
その通りです。しかしこの順序を踏まなければ、CLVで短期的な成功を収めても長続きしません。
私は、初年度は大きな達成感に沸いたのに、1年後には「あの熱意はどこへ行った?」となってしまった事例を、自分が関わったものも含めて数え切れないほど見てきました。
社内の全員が同じ意識を持たなければ、顧客中心主義は成功しないということでしょうか。
イエスでもあり、ノーでもあります。イエスの部分は、全員が同じ方向を向く必要があるということ。ノーの部分は、全員が同じことを考える必要はないということです。
研究開発、サプライチェーン、マーケティング、人事など、それぞれの持ち場で考えるべきことは異なります。言語も、指標も、メタファーも違っていていい。しかし究極的には、全員が同じ方向に進んでいくことが重要なのです。
かつての私は、企業文化に関する経営書を不当に軽んじていました。企業文化を語る人は、暗黙のうちに製品中心主義を語っている。売っている製品や提供しているサービスを核に文化が形成されている企業が、日本を含めてあまりに多いからです。
しかし、私は間違っていました。本当に優れた企業文化の枠組みは戦略を超越します。企業文化論から多くを学び、その考え方や枠組みを、製品中心ではなく顧客中心であるために活かすことができるのです。
『顧客は常に正しい』という古く脆弱な考え方から脱却し、適切な顧客層をターゲットにするため“組織再構築”という短期的な痛みに耐える覚悟を持つ。それが昨今のビジネス環境において避けられない問題、コモディティ化、技術革新、グローバル化、規制緩和、絶えず変化を続ける競争などに対する防衛策を講じることができる。と語るフェーダー氏。日本人が得意とする“きめ細やかなサービス”をより賢明かつ焦点を絞った形にリデザインできるかどうか。氏の提案する「正しい顧客」に集中する経営戦略は、今後大きな鍵となってくるのかもしれない。
◉文┃石澤理香子
◉撮影┃奥西淳二







