ねねと並び立つ存在だったまつ
利家が豊臣政権の重臣となると、まつの立場も大きく変わります。
秀吉の正室・ねねとは若い頃から親しく、まつは豊臣家と前田家を結ぶ重要な存在となりました。
慶長3年(1598)の「醍醐の花見」では、秀吉の側室である淀殿と松の丸殿が、盃の順番をめぐって対立した際、まつが年齢を理由にその場を収めたという逸話も伝わっています。数多いる戦国大名の妻たちの中でも、まつは単なる武将の妻ではなく、周囲から一目置かれる存在だったことがうかがえます。
前田利家とまつ(C)NHK
夫の死後、自ら江戸へ行き人質になる
慶長3年に秀吉が亡くなり、翌慶長4年には、利家も、この世を去ってしまいました。
まつは出家して「芳春院」と名乗り、夫の菩提を弔うことになりました。しかし、本当の苦難は、ここから始まったのです。
慶長5年、前田家当主となった長男の利長が、突然徳川家康から謀反の疑いをかけられたのです。加賀征伐の危機が迫るなか、まつは前田家を守るため、自ら江戸へ赴き、人質となる道を選びました。これによって前田家は戦いを回避し、家康との和睦が成立したとされています。
しかし、江戸での人質生活は、なんと約14年もの長きにわたったのです。不自由な暮らしのなかでも、まつは和歌や絵を楽しんだと伝わりますが、それでも、娘の千世にあてた手紙からは、つらく苦しい胸の内もうかがえます。







