第二次世界大戦が終わり、世界にはようやく平和が訪れるはずだった。だが、戦勝国が描いた新たな国際秩序は、各地に別の対立の火種も残していく。ドイツ分割、国際連合の誕生、イスラエル建国、そして戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判。戦後世界はどのようにつくられ、やがて東西の分断へと向かっていったのか。『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からのアメリカ史』でその歴史をたどる。

【アメリカから見た第二次世界大戦】戦勝国が生んだ「新たな火種」、忍び寄る世界分断の足音Photo: Adobe Stock

第二次世界大戦後のアメリカ

 国内がほとんど戦場になかった唯一の大国として、アメリカは同盟国や敵国と比べて国土への被害が少なく、国としての力を大きく残していた(アメリカ領内での戦禍は真珠湾攻撃などに限られていた)。戦争特需によって経済は支えられ、成長軌道に乗った。

ヤルタ会談とポツダム宣言

 1945年2月、ドイツが降伏する3カ月前、そして日本が降伏する6カ月前に、連合国側の勝利は明白だった。ビッグスリーと呼ばれたチャーチル、ローズヴェルト、スターリンはヤルタ会談に臨み、戦後の秩序について話し合った。

 最優先事項は、将来のドイツの侵略行為を防ぐことだった。連合国首脳たちはドイツを4つに分割することを決定した。ベルリンも4つに分けられ、アメリカ、イギリス、フランス、ソヴィエト連邦がそれぞれの地区を管理することになった。

 3人はソ連領クリミア半島のヤルタで、ナチスの支配から解放されたすべての地域が、民主的選挙をおこなう権利を持つことを確認した(2度の世界大戦でドイツの攻撃を受け国が荒廃したスターリンには、東ヨーロッパにおける「勢力圏」が認められた)。ソ連は日本に対する戦争に軍隊を派遣することに同意した。そして首脳たちは、ナチスの戦争犯罪者を裁判にかけることに合意し、失敗に終わった国際連盟に代わる新しい平和維持体制として国際連合の計画を立てた。

国際連合

 国際連合(国連)は、1945年6月26日に50カ国がサンフランシスコでその憲章に署名して設立された。国連は外交を通じて世界の平和を保つことを理念とする。

 1948年、隣接するアラブ諸国が新国家イスラエルに侵攻すると、イスラエルは強く反撃した。数十万人のパレスチナのアラブ人が、ふたつのアラブ人支配地域であるヨルダン川西岸とガザ地区に逃れた。1967年には、周辺アラブ諸国との緊張が高まるなか、イスラエルの攻撃によって戦争が始まり、イスラエルが西岸地区、ガザ地区、シリアとエジプトの一部を支配下に置いた。

 パレスチナとイスラエルのあいだの対立は、今日まで続いている。

ニュルンベルク裁判

 1945年11月、ドイツのニュルンベルクでナチス指導者たちを裁く、いわゆるニュルンベルク裁判が始まった。人道に対する罪や戦争犯罪などが問われ、最初の裁判では19人が有罪となり、そのうち12人が死刑を言いわたされた。その後もニュルンベルクでは裁判が続き、一連の裁判が終わるまでには100人を超える被告が有罪となった。東京でも同様の法廷(極東国際軍事裁判所)が開設され、東条英機元首相と、ほかの6人の日本の指導者が有罪となり、処刑された。