元親と争っていたのが、十河存保(そごう・まさやす)です。存保と元親は、1582(天正10)年には激しい勢力争いを繰り広げていました。同年8月、存保は中富川の戦いで元親に敗れて以降は、本拠である讃岐に退き、十河城や虎丸城を拠点に抵抗を続けます。
十河城。城域はほぼ宅地化しているが、湿地に守られていた姿を窺(うかが)える風景も 撮影:今泉慎一
十河城の本丸北の空堀。中央の土橋部分には橋桁を外せば簡単に落とせる「からくり橋」があった 撮影:今泉慎一
北麓(ほくろく)から見た虎丸城。麓(ふもと)からの比高は395mと半端ない 撮影:今泉慎一
虎丸城には複数の堀切が設けられている。中には巨石を活用したものも 撮影:今泉慎一
徐々に押され気味だった存保は、秀吉に援軍を要請します。そして派遣されたのが、秀久でした。秀久は讃岐に出陣して引田城に入り、長宗我部の軍勢と対峙(たいじ)します。ここで秀久はさっそくやらかしてしまいます。







