引田城は岬の先端の岩山に築かれている 撮影:今泉慎一
引田城・本丸石垣 撮影:今泉慎一
実はこの頃、秀吉は柴田勝家との争いで賤ヶ岳の戦いに臨もうとしていました。讃岐の存保が援軍を求めても、兵力を割ける状況にはなかったともいえます。しかも勝家と元親が結び、秀吉勢を挟む構図となっていました。
そんな状況での秀久の引田城入城でしたが、元親が讃岐侵攻に多くの兵を割いたため、引田城の戦いで秀久は徐々に劣勢に。多くの将兵を失ってしまいます。そして戦局がさらに不利になると、秀久は引田城を放棄して淡路に撤退してしまいました。
この戦いでは、敗走の混乱の最中に秀久方が自軍の幟(のぼり)を奪われたという逸話まであります。そんな語られ方がされてしまうほど、不名誉な敗戦だったということなのでしょう。
引田城より東方の眺望。中央奥に淡路島が見える 撮影:今泉慎一
残された存保はなおも抵抗を続けますが、最終的には1584(天正12)年6月、第二次十河城の戦いに敗れ、四国を脱出。ですが、2年弱も元親と渡り合ったことは、評価に値します。







