奮戦したのに逃亡者より下に
秀吉によるまさかの裁定

 1585(天正13)年、秀吉は弟・秀長を総大将にした大軍勢を四国へ派遣。元親を降伏させ、四国征伐を果たしました。その戦後処理で、秀吉は四国の領土配分を決める際、「まさか」の展開が待っていました。

豊臣秀長像豊臣秀長像。豊臣秀吉の弟として、四国征伐では総大将を務めた(作者不明、春岳院蔵) Photo:Wikimedia Commons/Public Domain

 引田城の戦いで戦果を上げられず逃げ帰った秀久ですが、その後も四国方面で軍事行動を続け、四国征伐後には讃岐高松城主10万石余の大名に大出世。一方、存保にも讃岐国内に2万石の所領は与えられましたが、あくまで秀久の与力とされました。

 秀吉にとって、元々は子飼いの武将だった秀久に対し、存保はあくまで最近配下に加わったばかりの外様。しかも秀久は、引田城での敗戦以前から、秀吉の命を受けて淡路・阿波・讃岐方面で軍事行動を重ねていました。

 つまり秀吉から見れば、秀久はすでに四国方面で使い続けてきた直属の武将でもあったわけです。秀吉が戦後の讃岐に必要としたのは、「最も勇敢に戦った人物」ではなく、自らの命令で動き、在地勢力を束ねられる直属の武将だった、ということなのかもしれません。

 そうはいっても、あっさり逃亡してしまった秀久が一国を手に入れ、徹底抗戦した存保が与力とは……。

 存保が讃岐でなんとか踏ん張っている間に、秀吉は勝家を討っています。さらに同年11月、これは存保の四国脱出の約半年後のことですが、秀吉は小牧・長久手の戦いで対立していた織田信雄と和睦し、家康は撤兵します。