もし存保の抵抗がなければ、元親の進軍はより速かったことでしょう。そして、秀長率いる大軍が来襲する前の準備は万全にできていたはず。軍事面だけでなく、中国地方を領していた毛利氏を、外交交渉により味方につけることも可能だったかもしれません。その隙が与えられなかったのは、存保の“時間稼ぎ”が大きな要因だったはずです。

第二の“やらかし”により
十万石余も没収され改易

 秀久はその後、九州の豊後国に秀吉方の軍監として派遣されます。目的は、島津軍に攻撃されていた大友氏を救うこと。秀久率いる豊臣勢の兵力は約6000。そこには、存保や元親ら四国勢も動員されていました。対する敵の島津軍は1万〜1万3000とも。

戸次川の戦い図(現地案内板より)戸次川の戦い図(現地案内板より) 撮影:今泉慎一

 ここで秀久は人生最大の“やらかし”をしてしまいます。秀久は鶴賀城救援のため、渡河して島津軍を攻撃する決断をしてしまったのです。1586(天正14)年12月の「戸次川の戦い」です。

鶴賀城から北の眺望。眼下手前の橋あたりを左から右へ渡河した鶴賀城から北の眺望。眼下手前の橋あたりを左から右へ渡河した 撮影:今泉慎一
鶴賀城の畝城竪堀群鶴賀城の畝状竪堀群 撮影:今泉慎一
鶴賀城の堀切鶴賀城の堀切 撮影:今泉慎一

 後世に書かれた『土佐物語』『元親記』などの軍記物によると、秀久率いる軍勢は、島津の「釣り野伏(のぶせ)」に引き込まれたといいます。釣り野伏とは、偽装退却で敵をおびき寄せ、伏兵とともに袋だたきにするという戦術。島津軍の得意とする手でした。