私たちが知っているのは
大谷翔平の「一部分」
アスリートのペルソナも、そのアスリート本人が生きている無数のペルソナの1つだ。大谷翔平のペルソナを私たちはよく知っている。だが、それは大谷翔平の生きているペルソナの1つでしかなく、私たちは大谷翔平のわずかな部分しか知らない。もちろん、大谷翔平ファンになればなるほど、大谷翔平の意外なエピソードを知っているかもしれない。「オータニ」のペルソナと大谷翔平のペルソナが重なり合ったりする瞬間を知っているかもしれない。だがそれにしたところで、野球と関わっていないときの大谷翔平の多種多様なペルソナについては全然知らない。
〈スポーツする〉アスリートたちは、とくに特殊なメディアペルソナである。アスリートたちのすごさが測られ、それが公衆の目に晒され、評価され、アスリートもその結果を引き受けて、挫折し、心を痛め、あるいは逆境を乗り越えようとする。
こうした、試練が繰り返されるところに、アスリートがアイドルとは異なるペルソナの鑑賞文化がある。とはいえ、いま、アイドルの多くもまた、アスリート化している。韓国におけるアイドル文化がその近年の震源となった「アイドルオーディション」文化は、アイドルデビューを目指す人々がアスリートのように、ダンスや歌を練習しながら、ファンの投票や審査員の審査によって、オーディションを通過していき、激しい競争を経てデビューを飾る。
つまり、アイドルが一層鍛錬に打ち込むようになった、といった側面だけではない。それよりもむしろ本質的に、現在の文化は、〈スポーツ〉化している。誰が誰よりすごいのかを明白にしたい、知りたい、という認識的欲求が高まった不思議な時代を私たちは生きているようにみえる。もちろん、こうしたすごさの把握への欲求はこれまでも生じてきただろう。
だが、現代の特徴は、文化的なもの、感性的なもの、つまり、うまく評価するためのガイドラインを設定したり、透明な評価が難しいものもまた計測し、そのすごさを明白にしたい、と人々が願う点にある。これを、「数値と客観性」への欲求の現れだ、というのはイージーである。私はむしろ、もっと根源的な欲求として分析したい。







