現代で失われつつある
「何かを育てる」という間柄

 人はなぜそもそも、自分が会ったこともない赤の他人を応援したり、逆に憎んだりするのだろうか。その理由として私が考えているのは、人がそもそも「間柄」に飢えている、ということだ。ここで間柄というのは、人と人(あるいは人と動物や人とキャラクターでも)の関係のことだ。関係というと、ふつうは相互作用するような関係を意味する。例えば、親子関係とか、師匠と弟子の関係とか。

 しかし、私たちは、この現代に生きていると、間柄の種類を昔ほど多くは生きられなくなってきているように思われる。例えば、昔ならば、自分の親とパートナーの親との間柄があったり、自分の子どもとの親子の間柄、周りの子どもや親戚の子どもとの間柄、仕事仲間との間柄に加えて、友人との間柄もあった。

 もちろん、今でも仕事仲間とか友人がいたり恋人やパートナーがいるかもしれない。だが、ひときわ目に見えて減っているのは、子どもと大人の間柄である。何も親として子どもを育てていなくても、友人や親戚や自分の兄弟の子どもといった関係でもよい。あるいは、子どもではなくとも、青年など年齢を問わず、誰かに何かを教える、という〈教育者-学ぶ者〉という間柄は、教員をしている者を除いては、あまり実践されなくなっているように思える。

「何かを育てることに参加する」という間柄の可能性がどんどんと減っているように思われる。この間柄は、成長を見守りつつ、その成長をアシストし、ときに挫折や失敗をケアし、チアーアップする、という、全人的な関わり方を可能にする。この間柄に教育者として参加することは、とても価値があり、楽しいことだ。私自身も、非常勤講師として大学で授業をしているときに、先週アドバイスしたことを学生が実践して、レポートの内容がぐんと良くなっているのを見たりすると、やりがいを感じるし、美学の家庭教師をしていて、学んでいる人がオリジナルなアイデアを思いついている姿を見ると(自分の手柄でもないのに)とても嬉しい。