人は応援を通じて
選手の成長に関わろうとする

 だからこそ、人は、「教える存在」なのだ。人間は本来的に、自分が知っていること、自分ができる技能を人に伝えたい。その知識や技能を自分だけのものにしておくことはできない。私たちは、なぜだか分からないけれど、誰かに自分が得てしまった知や力を伝えたくてたまらない。たとえその知識が間違っていたとしても。

 教えるという間柄が現実には実現できない代わりに、間柄は商品になった。様々なアイドルやアスリートやアーティストに上から目線で論じ、批判的なコメントをする人々は、そうすることによって、教えるという間柄を生きようとしているのだ。もちろん、それは、一方的であり、しかも、批判が的を射ていることはほとんどない。だが、人はとにかく教えたいのだ。教えることは、人間にとってある意味では自分が生きてきたことを肯定するために行う行為なのだ。

 自分が教える役割になって、人が成長しているのを見たい。確かに、多くのアスリートとの関係はメディアを介したものであり、私たちは実際にはその成長に直接関与することができない。家庭教師や指導者のように、自分の言葉が相手に届いて、その結果として何かが変わる、という関係ではない。

『アンチ・スポーツの哲学』書影『アンチ・スポーツの哲学』(難波優輝、朝日新書)

 けれど、それでもなお、人はアスリートに対して、ただ遠くから結果だけを眺めるのでは満足しない。応援し、期待し、落胆し、叱咤し、祝福したくなる。そうすることで人は、あたかも自分もその試練や成長に参与しているかのような感覚になることができる。実際に「教える」ことができるというより、他人の成長に関わりたい、支えたい、叱ることによってさえケアしたい、という欲求の発露があるように思われる。

 もっとも、すべての応援がそうだというわけではない。イチロー選手や大谷翔平選手のように、もはやこちらが何かを教えるとか支えるとか想像しがたい存在になると、それはむしろ、より純粋なスターへの称賛や、自己同一化を伴う応援に近づくのだろう。だが少なくとも多くの応援には、ただ強い者を見たいというだけではなく、誰かの苦しみや成長に、自分も何らかの仕方で関わっていたいという欲求が混ざっているように思われるのだ。