体育会系で身につくのは
「ローカルな礼儀」に過ぎない

 例えば、社会に出ると、メールで宛名・あいさつ文・締めの言葉・署名をきちんと書くことや、電話で明るくはっきり名乗りつつ相手に配慮して応対することのような、別種の礼儀が大事になる。あるいは、相手の都合や心理的な負担に配慮して、威圧せず、適切な距離感を保つことも重要な礼儀だろう。しかし、こうした礼儀が、体育会系文化の中でとくに鍛えられるわけではない。「大きな声で挨拶できる」とか「先輩や指導者に対して素早く従順にふるまえる」といった、作法が鍛えられるだけではないか。

 となると、体育会系文化の礼儀が体育会系文化の中で通用する、というだけのことになる。それはローカルな文化としてはもちろん成り立っている。だが、そのローカルな礼儀を、あたかも礼儀一般であるかのように語るのは、言いすぎだろう。しかし、ではなぜ、そんな限定的な礼儀が、礼儀一般のような顔をして受け継がれるのか。それはおそらく、その礼儀が人を対等に尊重するためというより、上下関係をはっきりさせ、命令と服従の文化を維持するのに都合がよいからではないか。つまり、それは礼儀の涵養ではなく、統制の技術として機能しているのである。

 そもそも、よい成績を修めることと、礼儀正しさが関係のないスポーツも多くあるだろう。また、体罰や暴言を吐くスポーツ指導者の礼儀というものも疑うことができる。たとえ体罰や暴言があったとしても、その監督やメンバーが勝利に導いてくれた、と認識すると、人々はそれらに対して容認感情を持ってしまう。だが、ふつうに考えて、勝利と体罰は天秤にかけるべきものですらない。体罰なしでは勝利できないのだとしたら、そんな腐敗した勝利など投げ捨ててしまえばよいだろう。

体罰を受けた学生が
指導者を肯定するのはなぜか

 だが、勝利することが、何よりも自分やチーム、さらには周囲の親たちのためになるのだ、と過剰に考えてしまうと、とくに若い人々のあいだでは、自分や他人になされた体罰を「しかたがないもの」「意味のあったもの」と受けとめてしまう力が働く。もちろん、すべての被害者がそれを容認するわけではない。だが、体罰が勝利や成長と結びつけて理解されると、それを明確に拒絶しにくくなることがあるのだ。