例えば、社会学者の阿江美恵子の研究によると、体罰をされたことのある体育会系女性大学生の7割が体罰をした指導者に対して「自分の成績が上がった」などと、肯定的な評価をしていることが報告されている(阿江 2019)。
さらに、阿江の研究を踏まえたスポーツ心理学の研究では、体罰経験者のほうが未経験者よりも体罰容認的態度を示しやすいこと、また被体罰経験が体罰容認度に正の影響を及ぼすことが示されている(豐田隼 et al. 2023)。ここで問題なのは、体罰を肯定的に意味づけてしまう心理的な論理が存在している、ということだろう。
そもそも、社会学者の片岡栄美が指摘するように、「礼儀」の名のもとに、理不尽な抑圧や暴力が体育会系文化においては正当化されがちなことを見逃してはならない。
挫かれた自尊心が
弱い立場への暴力に向かう
そういうわけで、体育会系文化が「礼儀一般」を涵養できるかのような顔をしていることにこの記事では批判を加えてきた。体育会系文化が涵養する礼儀とは、ごくごくローカルな礼儀なのである。
『アンチ・スポーツの哲学』(難波優輝、朝日新書)
こうした「礼儀」という名の暴力は、結局のところ、勝ち負けをひたすらに気にする体育会系文化を源流としている。片岡は「活躍できない選手や負けた選手は相対的な剥奪感や嫉妬から、容易に規則厳格主義になり、あるいはインフォーマルな場で弱者(下級生)へのいじめや体罰、スケープゴートを容認する文化の肯定へとつながっていた。これも一種のねじ曲がった支配欲の表れであり、支配欲を満たす戦略の一つである」(片岡 2021,21)と指摘するように、結局のところ、勝利をしなければ尊重されない体育会系文化において、その挫かれた自尊心を回復するために、より立場の弱い人間をいじめるという態度が醸成されるのだ。
もちろん、この悪循環は、〈スポーツ〉とまったく無関係なところから降って湧いてくるわけではない。〈スポーツ〉には勝敗があり、競争がある。それゆえ、その競争の結果をどう受け止め、どう意味づけるかが問題になってきた。体育会系文化とは、結果に加えて競争のプロセスそのものに努力・我慢・服従・体罰といった価値を過剰にまとわせた文化なのだ。つまりそれは、〈スポーツする〉ことと無縁ではないが、〈スポーツする〉ことそのものでもない。〈スポーツする〉ことの本質である競争の種が、日本社会の空気を吸って、肥大化し、ねじれたかたちで花を咲かせ、制度化されたものなのである。同時に、競争を無批判に肯定し、そして、そのための努力・挫折・体罰を必要なものとする態度、少なくとも、否定すべきものとして切り捨てない態度が、体育会系文化のなかで根強く残る礼儀の名による暴力を温存しているのだ。







