除雪に多額の予算が充当されているとはいえ、当然人員も機材も、そして時間も有限です。すべての道路を綺麗に短時間で除雪し、その雪をどこか邪魔にならないところに持っていくのは不可能です。そのうえ雪は一晩でドカンと降ったりします。交通量の多い道路から優先的に除雪されるのは、全体からみれば仕方のないことかもしれません。

 さて、この場合「悪者」は誰なのでしょうか?全体の都合のことを想像できない市民でしょうか?でも一人ひとりはもしかすると5分から10分程度の電話かもしれません。それとも「悪者」は豪雪地域で毎年ドカ雪が降るのをわかっているのに、いまだ対応できないA市の担当部署でしょうか?それとも市長?でも役所だからといって、人員、機材、時間を無限に使えるわけではありません。

 事実として、市の担当者は困っています。でも市民が困っているのも本当です。では誰が悪いのでしょうか。

住民の不満は「行政の代表者」
である窓口職員に向かう

 行政のカスハラの特殊性を考えるうえで、避けて通れない議論として「行政責任」があります。

 アメリカの行政学者Friedrichの1940年の論文「公共政策と行政責任の本質(Public Policy and the Nature of Administrative Responsibility)」では、行政責任の重要な要素の1つに「公衆の感情」への応答性をあげています。これは「住民の意見に耳を傾けよ」というものですが、そこには、ジレンマが常につきまといます。

 たとえば、17時に閉庁する市役所に、ある住民から電話がかかってくるとします。その住民は渋滞に巻き込まれて17時30分に到着する、と。仕事で忙しく、今日しか来庁できない。だから申し訳ないけれど、待っていて受け付けてほしい、と言うのです。対応した職員は、ここで断れば相手は怒り出すかもしれないと思い、自分が30分待つだけで済むのなら待とうと考えます。でも上司は頑なに「時間は厳守」と言います。

 こうしたジレンマを、行政学者である西尾勝は「行政責任のジレンマ」として整理しました。

 たしかに、職員個人は行政組織の指揮命令系統の中で業務を遂行します。もちろん、上司が部下の一挙一動を監視するわけにはいきませんので、職員は個人の裁量で行動します。ただし予算・人員・制度といった複数の制約があるので、政策の不備や制度の仕組み、あるいは人手不足による待ち時間の発生などは、その責任範囲を個人に帰すことはできません。

 とはいえ、住民にとっては、目のまえの職員こそが「行政の代表者」に見えるため、行政への不満は、窓口に立つ職員個人にその矛先が向いてしまうのです。

 このように、行政におけるカスハラ問題の核心は、責任のジレンマによって引き起こされることが多いのです。

 カスハラは単なる「外部とのトラブル」ではなく、現場にいる職員個人と、組織全体、管理部門との関係において問題がおきるといえるでしょう。