Photo:UIG/JIJI
今や世界的ブランドとなったタミヤも、最初から順風満帆だったわけではない。初のプラモデル「大和」は売れず、一時は会社存亡の危機に。さらに海外では「日本製」というだけで相手にされなかった。そこからタミヤは、なぜ「世界のタミヤ」へと駆け上がることができたのか。その背景には、精密さだけを追わず「作りやすさ」にこだわった独自のものづくりと、兄弟2人の存在があった。※本稿は、元テレビ朝日アナウンサーの松井康真『私とプラモデルの半世紀』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。
初のプラモ「大和」が売れず
タミヤは存亡の危機に陥った
タミヤ製品の素晴らしさは、どこにあるのでしょう?パッケージデザインから始まり、精密さ、魅力的なラインナップ、組み立て工具や塗料などのトータル製品展開、数々のイベント開発と運営、カスタマーサービスの手厚さ……思いつくことは沢山あります。その中で私が特に皆さんにお伝えしたいのはキットの「作りやすさ」です。タミヤのプラモデルは作っていて楽しいのです。
昭和の時代に創業した日本のプラモデルメーカーは、ほとんどが木製模型メーカーとしてのスタートが基本でした。タミヤも大型艦船の木製模型でヒットを飛ばしていただけに、海外からやってきて大ブームになるプラモデルへの転業が、同業他社に比べて出遅れました。初のプラモデル「1/800大和」の発売は1960年5月でしたが、先行してプラモデルを発売していたライバル社の「戦艦武蔵」とバッティングして売れ行きが厳しく、一時は会社存亡の危機を迎えます。







