弟・督夫がデザインで
「世界のタミヤ」を支えた

 残念なことが続きます。俊作会長が亡くなられてからおよそ1カ月後の8月19日、今度は会長の実弟でタミヤのデザイナー、アートディレクターとして活躍された田宮督夫さんが、87歳で亡くなられました。

 督夫さんは俊作会長の3歳年下の弟で、東京芸大に在学中に兄の俊作さんに頼まれて初代のタミヤの「ツインスター」のロゴマークを考案するなど、タミヤに深く関わりました。

 1967年からはフリーになって東京青山に事務所を立ち上げ、デザイナー、アートディレクターとしてタミヤのありとあらゆるデザイン関係の仕事を統括し、1998年まで担当されていました。

 タミヤの製品はキット自体の素晴らしさはもちろんのこと、パッケージ、カタログ、チラシ、雑誌広告、グッズ、果ては社用封筒に至るまで、何をとっても同業他社より1歩も2歩も抜きんでてかっこいいと私も子ども心に感じていました。

 ありとあらゆるものがタミヤのツインスターマークを中心にデザインが統一されていました。その生みの親・督夫さんの功績には計り知れないものがあります。今でこそCI(コーポレート・アイデンティティー)という言葉が一般に使われるようになっていますが、この考え方を半世紀以上前にいち早く取り入れ、それを徹底して具現化した先見の明には驚くばかりです。これを「田宮督夫」という人物がたった一人で築き上げたのです。

 後に督夫さんは、当時を振り返る記事の中で、

『私とプラモデルの半世紀』書影『私とプラモデルの半世紀』(松井康真、中央公論新社)

「田宮模型をなんとか世界に通用する企業にできないか。玩具というイメージを変えたい。模型業界の認識をレベルアップできないか」

 と試行錯誤して、こうした統一デザインを考え出したのだと記されています。

 督夫さんが今も続く、タミヤの新生ツインスターマークをデザインし直されたのは、若き俊作会長が単身アメリカに乗り込んでタミヤ製品を売り込むも、「日本製品」だというだけで相手にされず(その頃は「メイド・イン・ジャパン」は悪い意味に使われていました)、傷心のまま帰国した頃でした。「日本一ではなく、世界一の品質でなくてはだめだ」と社是に謳うことで、「1/12ホンダF-1」という画期的な製品を開発して1968年のニュルンベルクの国際玩具見本市に初出展した時に、この新生ツインスターマークがボックストップに輝いていました。

 タミヤはこの2人の兄弟の両輪で「世界のタミヤ」へとかけ上がっていったのです。