西洋列強の外圧から逃れるためには、中央集権の実現が必須であることは誰の目にも明らかだった。忠順は、たとえフランスの援助を受けても、国内を平定し、徳川を頂点とした統一国家を早急に築くことが出来れば、独立した主権国家として生き残れると考えたのだろう。

 一方、海舟は以前から幕府独裁を廃し、諸侯が参加して「公議」を形成する共和制を考えていた。だから、西郷隆盛らともつながることが出来た。忠順はそんな海舟に対する牽制のつもりで、みずからの構想を話したのかも知れない。しかし海舟は忠順が日本を西洋に売ると解釈し、そのように言って廻った。

勝と小栗の違いは
徳川の扱い方にあった

 後年、海舟は忠順を「誠忠無二の徳川武士」「三河武士の長所と短所とを両方具えていた」と評している(『氷川清話』、注2)。徳川家康以来の譜代の臣である忠順にとり、徳川政権は絶対だった。それが海舟に言わせれば「短所」なのだろう。

 この点海舟の出自は、忠順とは全くと言っていいほど違う。越後の農民だった曽祖父が江戸で財を成し、3万両で旗本男谷家の株を買い、末子の平蔵に継がせた。平蔵の3男小吉が旗本勝家の1人娘に婿入りして、海舟が生まれた(注3)。それは坂本龍馬の生家が、高知城下の豪商が郷士株を買い作った分家だったことにも似ている。近代的な合理主義者とされる海舟や龍馬にとり、封建社会で崇められる身分など、しょせん金銭で買えるものだったのだ。

 小栗忠順の構想を聞かされた海舟は、ここで論争して時間を費やすのは無駄だと思ったらしい。その後大坂に赴き、在坂の老中で一橋慶喜のブレーンでもあった板倉勝静に、次のように反対意見を述べた。

「郡県の議は、万国交際起るに当て、当然の議なるべし。今我が徳川氏、邦家万世の為に諸侯を削小し、自から政権を持して天下に号令せんとするは、大に不可成べし」(注1)

 郡県制には反対しないが、ならばまずは徳川こそが「自から倒れ、自ら削小」すべきだと言う。徳川を権力の頂点から下ろさせ、その上で中央集権を実現するのだ。

注2 『勝海舟全集』第21巻、講談社、1973年

注3 石井孝『勝海舟』、吉川弘文館、1974年