すでに幕府は財政立て直しを忠順の手腕に賭けるしかなく、それが強引に独走しているような印象を与えたのかも知れない。

小栗のやり方では
日本が食い物にされる?

 ただ、幕府内でもフランスからの援助で製鉄所を建造したり、軍備を拡張することに、反対する向きもあった。大久保一翁(忠寛)は6月、江戸から福井にいる松平慶永に次のような書簡を発し、忠順のやり繰りに対する不満を述べる。

『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』書影『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』(一坂太郎、幻冬舎)

「特に此の地にては智者とか申す由の栗上(忠順)等論には、此の度の御趣向、御仕遂げ迄は御入費何様にも繰り廻す(金銭のやり繰り)べしと申しおり、すさまじき事に候。さりながら愚考にては、その繰り廻し方は下に取る外は決してこれ有るまじく、此の上右繰り廻し方にては、いよいよ他症の種蒔くと愁歎極め候。勝(海舟)氏へも先月参り候て、半日同歎のみに候」(注6)

 一翁は忠順のやり方では下から税を取るしかなく、そのために問題を引き起こすと、勝海舟と一緒に嘆いているのだと知らせる。

 海舟は後年『氷川清話』の中で「幕府の末年は、何のことはない、まるで今の朝鮮さ。金はない、力は弱い、そして人心は離反して居る。その隙を見込んで外国の奴らが付け込んで来るという風で」云々と語ったが、この頃の忠順のことを思い出しているのだろう。

 忠順はクレーと共に借款契約を慶喜に報告すべく、10月に入って京都に上る。慶喜ももちろん、反対はしない。なお、勘定奉行の忠順は8月11日から臨時ではあるが海軍奉行並を兼ねていた。海舟の上役だったのだが、共に仕事をする機会はついになかった。

注6 村田氏寿・佐々木千尋『続再夢紀事』第5巻、日本史籍協会、1922年