忠順と海舟の考えは、要は「徳川」のポジションをどうするかで違っていたのであり、目指すところは共に中央集権だった。それは数年後、天皇を戴く明治政府で廃藩置県を実現させた薩長勢力とも、共通していた。

幕府を背負う覚悟の小栗を
フランスは蔵相と呼んだ

 幕府の当面の大きな課題は、海陸の軍事力強化であり、薩長打倒である。そのためには莫大な資金が必要だ。

 フランス経済使節・クレーが来日するや、小栗忠順は600万ドル(約453万両。700万ドルとも)の借款を依頼した。幕府の1年分の歳出入に匹敵するほどの、巨額である。その大半は軍備増強に投ぜられる予定であり、忠順が軍艦奉行勝海舟に打ち明けた、挽回策の軍資金になるはずだった。

 横浜において借款契約が成立したのは、慶応2年8月20日(1866年9月28日)のこと。その日フランス公使・ロッシュは、次のように本国政府に報告した。

「フランスの会社ソシエテ=ジェネラールと英国の大銀行オリエンタル=バンクが、日本政府の蔵相(小栗忠順)の要請により、日本側のために約3500万フランの借款契約を締結した。ソシエテ=ジェネラールの代表者クーレ(クレー)氏に対して、日本政府は、莫大な額の武器・装備・軍艦の発注をした」(注4)

 ここにあるように、クレーとの間に武器軍需品の輸入契約も結ばれている。パリ駐在のエラールは300万フラン分の軍需品を、日本に向けて送った。

 西日本では将軍家茂が病没し、各地で長州軍が勝利して小倉城が落ち、徳川宗家を継いだ慶喜は勅を得て休戦に持ち込もうとしていた。報告書の中で、ロッシュは老中でも若年寄でもない忠順のことを「蔵相」と呼ぶ。ロッシュが、忠順の正確な職名を知らなかったわけではないだろう。石井孝はこの点につき、次のように評する。

「小栗の眼中には、老中も若年寄もなかったのである。このような気概で、幕府最末期の困難な財政をきりもりし、さらに『徳川絶対主義』の基礎設計をした彼は、まさに事実上の蔵相であったということができよう」(注5)

注4 石井孝『増訂明治維新の国際的環境 分冊2』、吉川弘文館、1973年

注5 石井孝『幕末非運の人びと』、有隣堂、1979年