「九州惣無事令」とは? 秀吉が目指した新たな秩序
惣無事令とは、戦国大名が領土をめぐって勝手に戦うことを禁じ、領土問題を天下人の秀吉の裁定に委ねさせる、という政策です。
九州の大名たちに対して秀吉は、私的な戦争をやめ、自分の判断に従うよう求めたのです。これは、単なる停戦命令ではありません。各地の大名が自力で領土を奪い合う時代から、秀吉を中心とする新たな政治秩序へと、世の中を移行させようとするものでした。
大友宗麟は、この命令を受け入れ、自ら大坂城を訪れて、秀吉に臣従しました。
このとき秀長は大友宗麟に「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候」(私的な相談は千利休へ、公的な政務は宰相へ任せるように)と伝えた (C)かしまし歴史チャンネル
一方、島津氏は、秀吉の裁定に納得できません。秀吉が示した領土配分案では、筑前を羽柴氏、肥前を毛利氏に与え、大友氏には、豊後に加えて筑後、豊前、肥後北部まで与えると示されました。島津氏からすれば、これでは、戦いによって獲得した領土の多くを失うことになります。受け入れがたいと考えたのも当然でしょう。
しかし、島津氏が大友氏との戦いを続けたことで、秀吉は、これを惣無事令への違反とみなし、九州征伐へと踏み切ったのです。
先遣隊が戸次川で大敗、秀吉軍が九州へ本格進撃
天正14年(1587)、秀吉は九州へ先遣隊を派遣しました。豊後方面には、仙石秀久や長宗我部元親らが向かいましたが、秀吉が本隊の到着まで戦闘を控えるよう命じていたにもかかわらず、仙石秀久らは戸次川(へつぎがわ)で島津軍と交戦。結果は大敗でした。
この戦いで、長宗我部元親の嫡男・信親が戦死します。享年22。これは、四国の有力大名であった長宗我部氏にとっても、大きな痛手となりました。
この敗戦を受け、秀吉は本格的な九州征伐に乗り出します。







