「人物主義」とは何か

 給料は人(能力)に対して払うのか、仕事(成果)に対して払うのか。大きくは、この二つに分けて考えることができる。さっと考えると、能力自体がお金を儲けるわけではないので成果に対して払うのが当然となるが、必ずしもそうではない。「人物主義」における「人に対して」という意味は、「社員の保有する潜在能力に対して払う」ということだ。そこには、高い潜在能力は仕事を通じて必ずや成果として顕在化するという期待と信念がある。

 迂遠な印象だが、人物評で時折耳にする「できる人は何をやってもできる」という言葉の背景にある考え方だ。高い潜在能力があれば、大きな環境変化が起きても工夫して業績を伸ばせる……、そうした連続のなかで必ずや長期間にわたり安定的に成果を上げるだろうということなのだ。

 一方、成果に対して払う、言い換えれば顕在化した能力に対して払うというやり方は、わかりやすい。だが、問題点としてよく指摘されるとおり、運用に気をつけないと場当たり的な対応が横行し、会社のリスクとなる可能性は否定できない。「一瞬よくてもすぐに馬脚を表す」のだ。

 たとえば、四半期ごとに個人業績を評価してボーナスを払うIT企業がいくつかある。そのような会社では、やがて同僚間での「落とし合い」が始まる。IT企業の常で、関係者にはすべてCCでメールが届き、個人はそのメールをさばくのに必死にならざるを得ない。「まるで社内サイバー攻撃を受けているようでノイローゼになってしまう」とつぶやいた、あるIT大手の社員もいた。

 このような社内体制自体のよし悪しについて論ずるのは別の機会に譲るが、少なくとも短期の個人評価が「評価のための評価」に陥りがちな点は指摘しておきたい。

 では、伝統的な「人物主義」に戻るのはよしとして、その課題は何か。それは、一体、何をもって「高い潜在能力」と評価するかだ。

 人事制度の技術的側面で言えば、前回あげた「コンピタンシー」とか「行動特性」といわれるものが、ヒトとしての(実質的な潜在)能力を図る尺度になっている。しかしながら、それは実質的には評価者の意のままに何とでもなる世界だ。部下について「彼はきちんと他人との意思疎通が図れますか」と問われて、「否」と答える上司は、よほどその部下を嫌っていない限りまずいない。

 もともと上司は本能的に自分に似た人を残そうとする。そうやってDNAをバトンリレーしていくためだ。であれば上司が気の向くままに気に入った部下を高く評価するのも必然性がある。人を通じ企業としてのカルチャー、すなわち「社風」が受け継がれていくための歴史的行為なのだ。


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