もう20年以上前になるが、外国為替専門銀行だった東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)で、一つ感心していたことがある。
それは、メディアでの為替相場の分析や予想にチーフディーラー(ディーリングの責任者)を登場させずに、調査部長にコメントさせていたことだ。
さすがに相場に理解があると思って見ていた。
円安であっても円高であっても、なんらかの相場観を口にすると、どうしても自分の言葉にこだわりが生まれる。まして、メディアに載るとなおさらだ。
自分で意識しないつもりでも、他人から話しかけられることがある。当たりはずれが気になるのも余計なのだが、それ以上に他人に自分の言葉を晒したことで、過去の意見との「なんらかの一貫性」を意識していなければならないのが負担だ。たとえば、少し前に円安を予想していて、現在は円高を予想するとした場合に、何が変わったからそうなったのか、前と後を一貫して正当化する理由を考えなければならないことがその後の思考を制約する。
為替のディーリングであっても株式の運用のようなもう少しゆったりした仕事であっても、自分の意見を絶えず多角的に疑ってチェックしなければならないし、間違いや見落としを発見したと思った場合には、すばやく新しい意見を組み立てなければならないが、その邪魔になるのだ(その場合、すぐに売り買いをするのがいいとは限らないが)。
言葉の負担は、予想ばかりでなく結果の「言い訳」にもついて回る。
運用結果の顧客や上司への説明は、プロの運用者であれば常に考えておかなければならないことだが、この潜在的な負担感は、説明しにくい運用行動を避ける方向への「重力」として働く。