本では、モロッコで土産物を売る、マジードという名の商人の話も紹介されている。金持ちの顧客を次々とつかまえるのが得意なマジードは、似たような土産物を売るほかの仲間との違いを、こんな風に説明している。

「俺がほかのヤツらと違うのは、この店の品物にはみんな物語があるってことだ」

 マジードは顧客の欲しがるものを瞬時に察し、それに見合った商品の物語を作り上げ、見事なプレゼンテーションでそれを売り込む。結果、同じように見える土産物でも、彼が売るものだけが高い値段で売れていた。

現実から目を背けたい時ほど
人は「物語」に引きつけられる

「物語」は商品の価値を上げる。これは経済社会の常識だ。広告やエンターテインメントの世界では、マジードのようなテクニックは「モノ」だけではなく、「人間」を売り込むためにも使われる。そして、私たちはそのストーリーをたいてい、「うさん臭いものだ」と感じている。

 たとえば、もしも、佐村河内氏が作ったとされる音楽がクラシックではなく、ポップミュージックだったとしたらどうだろう?その場合、彼がゴーストライターを使って作曲していたとしても、私たちはそれほど驚かなかったかもしれない。「聴覚障害者がそれを乗り越えて素晴らしい音楽を作った」というストーリーも、眉にツバをして聞いていたはずだ。

 ある種の世界において、「人間」を売り込むために物語を創作することは、それくらい“当たり前のこと”になっている。芸能人の絵が、じつは、売れない画家に描かせたものだったとしても、私たちは「どうせ、そんなものだろう」くらいにしか思わない。

 一般的に言えば、営業パーソンが勧める商品に100%の信頼を置くのはかなりのお人好しか、世間知らずだろう。佐村河内氏の作ったストーリーが感動を呼び、検証されることもなく流通していったのだとすれば、それはメディアの怠慢という以上に、この社会にある、なんらかの“消費者ニーズ”を感じさせる。

 もしかすると、私たちは必要以上に「感動的なストーリー」を消費したがっているのかもしれない。佐村河内氏の創作するストーリーに東日本大震災の被災者が利用されたのは、偶然ではないだろう。社会はそれくらい癒せない「傷」を抱えているし、問題はいまだ深刻なままに続いている。私たちは、その厳しい現実から目を背け、安易に心を癒してくれるストーリーに浸りたくなっているのかもしれない。