1914年3月に帝国劇場で上演したトルストイ作「復活」(島村抱月訳)で「カチューシャの唄」(中山晋平作曲)を歌い、5月にはレコードを発売して一躍大スターとなった松井須磨子、同じ5月に、すでに帝劇を辞めていた三浦環は夫の政太郎とともにドイツへ出発した。この2人は当時、どのように評価されていたのだろうか。

「中央公論」(1912年7月号)が
「松井須磨子と柴田環」を特集

 帝国劇場開場の翌年、月刊誌「中央公論」(1912年7月号)がいち早く「松井須磨子と柴田環」と題した特集を組んでいる。20ページにわたって作家、劇作家、評論家、画家らが2人について論じているもので、なかなかおもしろい。とつじょ帝劇から出現した20代女性のスターに対する世間の眼もよくわかる。

帝国劇場の舞台と客席(1911年、国会図書館所蔵)

 この「中央公論」は、ちょうど「歌劇釈迦」(松井松葉作、6月1日~23日)の公演が終わったころに出ている。環はこれを最後に帝劇から去る。須磨子はこの時期、島村抱月との恋愛関係から文芸協会が混乱している最中で、帝劇には出演していない。

 いくつか拾い読みしてみよう。まず、中村吉蔵の批評から。中村吉蔵(1877-1941)は大正・昭和戦前の劇作家で、1913年には島村抱月と須磨子の芸術座設立に参加している。

「現在の日本の演劇界に『女優らしい女優』が始めて出たといふ事丈は、最も公平な態度で言明し得られるやうに自分は信じている、而して将来『日本一の女優』に成り得る資格を備へた人といふ期候を以て、この現今の『日本に於ける最初のActress』の前途を注視したいと思っている。(略)須磨子嬢は、何處迄も油断せず、休憩せず、常に『恐ろしい勉強家』の心掛を忘れないで、批評界乃至社会公衆の多大なる期候に対し他日充分の満足を与えて貰ひたいものである。/それから環女史がオペラの歌優(シンガー)としての現今の地位は、須磨子嬢が女優としての地位を略々匹敵するものであらう、少くとも人気の点に於いて然うであらう」(中村吉蔵「須磨子嬢と環女史の前途」、「中央公論」1912年7月号所収)

 中村吉蔵は、しかし環の歌唱はまだまだ未完成で、これからの努力次第だとして、こう続ける。

「高調に達した際のメロディーには、全劇場の群衆の心理を唯一つの恍惚たる精神の流れに熔解せしむる、可也長い瞬間(モーメント)がつづくが、環女史のはかかる瞬間(モーメント)を感ぜしむる事が至って少い、併し声調そのものは、日本の唱歌者としては慥かに優れたもので、容易に得難いものであらうとは思っている」(中村吉蔵、前掲誌)。

 つまり、長大なソロをフォルテで劇場を鳴らし切るところまではいたっていない、と言いたいのだろう。