島村抱月(1871-1918)は、現在では松井須磨子(1886-1919)との関係と芸術座の5年間で強く記憶されているが、19世紀末から20世紀初頭を代表する文学者である。養父・島村文耕の支援を得て1890(明治23)年に島根県浜田から上京し、東京専門学校政治経済科に入学、翌年に発足2年目の文学科へ転じ、坪内逍遥(文学、1859-1935)と大西祝(哲学、1864-1900)の指導を受けた天才的な文学者だった。

英独留学で抱月が見た舞台184本!

島村抱月が編集責任者だった第2次「早稲田文学」(大正3〈1914〉年1月号通巻50号)の表紙と目次。この号には抱月訳によるイプセン作「人形の家」の脚本全文が掲載されている

 自由民権運動の嵐がおさまり、大日本帝国憲法発布(1889)、帝国議会開設(1890)が実現した時代、舞台は帝都東京である。

 日清戦争開戦の1894年に文学科を卒業すると抱月は、逍遥が創刊した「早稲田文学」(第1次、98年まで)の編集者となり、翌年、島村文耕の姪と結婚する。98年に文学科講師に就任、修辞学や西洋美学史を講じた。同時に「読売新聞」でも文芸担当の編集者として紙面を任されている。

 1902(明治35)年3月に東京専門学校(この年に早稲田大学と改称)から海外留学生としてイギリスとドイツへ3年間派遣される。日英同盟締結の年である。

 5月にロンドンへ渡り、牧師の家に寄宿、10月の冬学期から04年夏学期までオックスフォード大学、04年冬学期(05年5月まで)をベルリン大学に滞在した。

 05年9月に帰国すると10月には早稲田大学文学科講師(のち教授)に復帰し、翌年すぐに「早稲田文学」(第2次、06-27年)を復刊する。同時に逍遥とともに文芸協会を立ち上げることになった(以上、『新潮日本文学辞典』増補改訂、新潮社、1988などによる)。文芸協会以降は連載第34回に書いた。

 オックスフォード大学では英文学、美学、美術史などを受講し、ベルリン大学でも美学や芸術史を学んだ、と辞典類にはあるが、当時の文系の留学は単位を取得するものではなく、大学に滞在して自由に講義へ参加する聴講生である。これは経済学者の留学も同様だった。見聞を広げることが目的だったのである。

 抱月の留学で特筆すべきはすさまじい量の劇場通いであろう。岩佐壮四郎『抱月のベル・エポック』(大修館書店、1998)は抱月の留学中の見聞を詳細に追った労作で、巻末に「抱月観劇リスト」が掲載されている。この資料によると、3年間の独英滞在で184本の演劇、オペラ、ミュージカル、演奏会を見ている。

 ベルリンでは毎週水曜のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のリハーサルまで見学していたというからすごい。当時の芸術監督・常任指揮者はヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)の前任、アルトゥール・ニキシュ(1855-1922)だった。

 演劇は当然だが、オペラはイタリア・オペラからワーグナー、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の自作自演まで、さらにキャバレーや大衆演芸(ティンゲルタンゲル)も観劇し、パリで誕生したミュージカル=オペレッタまで見ている。

 ドイツからの帰国途上に欧州各地を旅行しているが、ウィーン宮廷歌劇場では1905年6月13日にオッフェンバックの「ホフマン物語」をグスタフ・マーラー(1860-1911)の指揮で見た。