2人のキムはエポニーヌとホーデルへ

「ミス・サイゴン」の公演が続いていた1993年半ば、87年から91年まで毎年続いていた「レ・ミゼラブル」が94年2月から再演されることが決まり、オーディションも開始された。入絵はエポニーヌ役の公募に応じることにした。このオーディションにも合格し、94年2月から8月までエポニーヌ役を演じた。島田歌穂とのダブル・キャストだった。本田がエポニーヌ役に応じたのは3年後の97年である。

 本田は同じ94年に「屋根の上のヴァイオリン弾き」のホーデル役に当てられ、苦手意識のあったセリフ、つまり芝居の特訓を東宝プロデューサー酒井喜一郎から受けた。これは連載第5回に書いたとおりだ。94年の「屋根の上のヴァイオリン弾き」の公演は4月2日から30日までだった。

 2人のキムは、「ミス・サイゴン」終了の翌年、エポニーヌとホーデルに分かれたわけだ。その後の本田の活動は連載で書いてきたとおりだ。入絵はエポニーヌ(「レ・ミザラブル」)を挟んで、「ミス・サイゴン」終了直後に博品館劇場で「姫ちゃんのリボン」(93年12月)、1年後にはやはり博品館劇場の「赤ずきんチャチャ」に主演している。

 1995年3月には名古屋の中日劇場で蜷川幸雄演出「魔女の宅急便」に出演し、少女性とコメディエンヌの才能が開いた。12月には博品館劇場「ナースエンジェルりりかSOS」に主演した。「ミス・サイゴン」から22年後の今日まで、膨大なミュージカルや演劇に出演しているが、少女性はぜんぜん変わらない。帝劇の楽屋で先週会ったとき、80歳の老婆から素顔に戻っていたが、その落差にうろたえたほどだ(★入絵の主な出演作品はこちら)。

 本田美奈子が急性骨髄性白血病のために急逝したのは2005年、その2年後の07年に入絵加奈子は「うたう」と題したミニ・アルバムを発売している。オリジナルが3曲、エディット・ピアフから1曲、ミュージカルから2曲選曲されている。ミュージカル・ナンバーは「命をあげよう」(「ミス・サイゴン」)と「On My Own」(「レ・ミゼラブル」)である。

「本当は美奈子の『つばさ』を入れたくて、事務所の高杉敬二さんや美奈子のお母様にお願いしに行きました。楽譜もいただき、録音もしたのですが、けっきょくアルバムに収録することはやめました。この時は、なんだか歌ってはいけないと思ったのです。どうしてだろう。でも、大好きな曲だし、歌い継いでいくべきだと思います」(入絵加奈子)