日米円ドル委員会で日本が
金融開国を迫られたのはなぜか?
実はプラザ合意の前に、日米間ではすでにドル円の水準調整に関する政治的な動きが活発化していました。
1982年に就任したレーガン大統領は、翌年11月の訪日を控え、日本側に対して為替相場を調整するために東京市場をもっと開放しなければならない、という問題提起を突き付けていました。経済問題が極めて重要な内政問題となっていたアメリカ側は、「円」の使い勝手をよくすれば為替市場での「円買い」が起きて日米間の貿易収支改善に必要なドル円の大幅な調整が行われるはずだ、という仮説に傾斜していたのです。
日本側は「ドル高はアメリカの金利高が主因だ」という主張を崩しませんでしたが、「日本に問題がある」と主張し続けるアメリカからの要求を拒絶できませんでした。レーガン大統領と会談した中曽根首相は日米円ドル委員会を立ち上げて、東京市場の自由化や金利の自由化、円の国際化といったテーマで両国がスタディをはじめることに合意したわけです。ただし、その作業部会に、両国の中央銀行たるFRBも日銀も参加していなかったことは、ドル円問題がいかに「政治問題」であったかを示しています。
この日米円ドル委員会は1984年2月から6回にわたって開催され、5月には報告書が発表されました。その主な内容は、基本的にアメリカが日本に「金融開国」を迫るものでした。金融・資本市場を自由化すること、外国金融機関の日本参入障壁を撤廃すること、ユーロ円市場を発展させること、直接投資に関わる規制や障害を撤廃すること、などが盛り込まれました。
そして、金融規制緩和は時間をかけて進めていく、という日本の戦術は一蹴され、矢継ぎ早にアメリカの要求の受け入れが発表されました。先物為替における実需原則は「日米円ドル委員会」の協議を前にして撤廃が決定されていましたが、その他の具体的な「開国」として、円建てBA(為替手形)市場の創設や銀行による円転規制の撤廃、海外勢の信託業務への参入、ユーロ円CD(譲渡性預金証書)市場の創設などが順次実施されていくことになったのです。
もっとも、こうした日本市場の開放が為替市場における円高要因になったかどうかは疑わしいところです。資本市場で円建て取引が増え、海外勢が東京市場でビジネス機会を拡大するとの思惑に反し、円買い・ドル売りの取引に直結するケースは期待されたほど多くなかったからです。
逆に、日本サイドの投資意欲を刺激してアメリカへの投資(資本流出)が増え、さらなる円売り・ドル買いが起きた、という指摘もあるほどです。アメリカがこの「金融開国」で得たものは、結果的にアメリカ金融機関の収益機会拡大に限定されていたのではないでしょうか。
一方で、日本の金融機関の中には「黒船襲来の再来」といった恐怖感や警戒感を抱いた向きも少なくありませんでした。しかし、結果的には資本市場が拡大する中でビジネス・チャンスが広がったのです。証券市場が活性化したことで、銀行による証券業への参入意欲が高まるという結果をもたらしたことは特筆すべきでしょう。それは、日本の金融産業の現在の姿をかたどる契機となりました。
日米円ドル委員会は、その名前が示すほどには為替相場に影響を与えませんでしたが、副次的に「市場ビジネス」を拡大するという効果をもたらしたのです。そしてアメリカ政権内で、ドル円の相場調整は為替市場に直接働きかけるしかない、という思いが強まる契機になったようです。その結果として、ドル切り下げの合意が確実に実行されるためには、各国による協調的な為替介入が必要だ、という考え方がG5にも共有され、プラザ合意へつながっていきました。