大正時代から現代まで、その時代の経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーでは、日本経済の現代史が語られているといってもいい。本コラムでは、100年間の『週刊ダイヤモンド』を紐解きながら歴史を逆引きするのがテーマだ。今回は、1980年代のポール・ボルカーの動向を紹介しよう。(坪井賢一)

1970年代のスタグフレーションで
政策のジレンマに陥っていたアメリカ

 1985年9月22日のプラザ合意でドル高が修正され、一挙に円高となり、日本は輸出産業が打撃を受け、景気後退へ進む。翌年、すぐに景気は回復するのだが、円高下、日本銀行は金利を低いままにしておいた。円高の恐怖はわれら日本人に染み付いていたのである。

 この好況下の低金利が金余りを生み、株や不動産に流れてバブル化することになる。では、どうして1985年にドル高からドル安=円高へ修正されたのだろう。80年代前半の米国の高金利政策のためにマネーが米国へ流入し、ドル高が続き、貿易赤字が膨らんだためである。同時に財政赤字も累積した(双子の赤字)。

 80年代前半の米国で高金利政策を主導したのがポール・ボルカー米連邦準備制度理事会(FRB)議長(1927-)だった。ボルカーは現在のオバマ政権でも、2009年2月以来、大統領経済回復諮問委員会議長(Chairman of the Economic Recovery Advisory Board)を務める金融界の超大物である。

 1970年代は西側諸国をスタグフレーションが襲った。スタグフレーションとは、インフレと景気停滞(スタグネーション)の同時存在である。インフレを退治するために金利を上げれば不況が深くなる。したがってジレンマに陥っていた。とくに米国は1960年代半ばからインフレが続き、経済力の相対的弱体化が進んでいた。

高金利政策でインフレ退治
しかし、ドルは乱高下することに…

 しかし、カーター政権下(1977-1981)、1979年8月6日にFRB議長へ就任したボルカーは、翌年からすぐに高金利政策を導入してインフレ退治に乗り出す。

「週刊ダイヤモンド」1980年3月29日号はこう伝えている(「緊急特集 日本を直撃する“世界高金利”10問10答」。