ドル安はどのように
日本のバブルを生んだのか?

 プラザ合意によって、ドル円が直前の240円台から1988年に120円台まで下落した結果、各国が望んだような不均衡の解消は達成されたのでしょうか。

 1985年以降の日本とアメリカの経常収支の推移を見ると、プラザ合意後の数年間は、確かに為替調整の一定の効果があったように見えます。日本の経常黒字は1986年にピークを打ち、1990年には黒字額がほぼ半減しました。一方で、アメリカの経常赤字も徐々に縮小して1991年にはほぼ収支均衡するまで改善したのです。

 ところが、その後は円高・ドル安基調に大きな変化がなかったのに、日本の経常黒字は増加に転じ、アメリカでは再び経常赤字拡大のトレンドが始まることになったのです。結局、ドルの大幅切り下げという荒業は、短期的に効果を生んだとはいえ、恒常的な不均衡解消をもたらすことはありませんでした

 その過程で、アメリカでは急激なドル安に伴うインフレ懸念が発生しました。インフレ抑制のために高金利政策を主導したボルカーFRB議長が、急激なドル安に強い警戒感を示すなど、プラザ合意の副作用を懸念する声も強まっていきました。こうしたインフレ懸念は同国の長期金利の上昇をもたらし、ブラック・マンデーへの伏線となっていきました。

 一方、日本では、日米間の不均衡を解消するための大幅円高が「円高不況」を生んだことに注目してください。不況対策としてまず日銀が積極的な緩和政策に転じました。金利を引き下げれば、企業は投資を行いやすくなりますし、家計にとっては住宅ローンなどを借りやすくなります。また内需拡大を迫られた政府は、公共事業の拡大など大幅な財政政策を採用しました。こうして積極的な円高不況対策は、その後取り返しのつかないバブル経済へと日本を追い込んでいったのです。

 日銀は1985年に5%だった公定歩合(今風に言えば政策金利)を、1987年には史上最低の2.5%まで引き下げました。そして、それは企業への融資増よりも、カネを借りて株や不動産に投資する「財テク」の動きを加速させました。銀行もまた、不動産関連の融資を増加させていきます。それは「バブル経済」の萌芽以外の何物でもなかったのです。

 また、成長ペースを引き上げるための財政政策の出動は、高速道路や橋、空港などの整備に資金を投じた結果として、従来の財政緊縮路線が転換され、国債増発への傾向が強まっていきました。すでに当時から、国債発行に依存する予算への懸念は強まりつつありましたが、産業界などは積極的な財政出動を歓迎しており、アメリカからの強い要請もあって、政府の財政支出は膨らむ一方でした。

 低金利と財政出動という経済対策パッケージは、為替調整による不均衡解消を狙ったプラザ合意の副産物でした。そして、日本経済に「未曽有の資産バブル」という新たな現象をもたらす媒介となりました。

 それは、やや形を変えながらも、21世紀の今日における「量的緩和による株高・不動産高期待」という「金融が作り出す幻想の時代」へと連なっています。