無理な旧平価での金解禁
井上デフレの破壊力は想像以上に

 ところが、そのような実力不相応の旧平価での金解禁は問題だと考えていたのが、高橋是清であった。それは、高橋が明治28年(1895年)、横浜正金銀行の本店支配人として、わが国の銀行で始めて外国為替業務を扱えるようにしたという実体験に基づくものであった。

 高橋は外国為替業務の専門家として、明治30年(1897年)、我が国の金本位制導入に際して、実勢に従って当時の公定の円レートを半分に切り下げるべきだと、時の大蔵大臣・松方正義に進言したという体験も持っていた。そのような高橋にとって、井上が断行しようとしていた旧平価での金解禁は無理なものであった。

 しかしながら、井上準之助は、高橋是清にとって、日本銀行時代の長年の部下であり後継者だった。そこで、井上が濱口内閣の蔵相になって金解禁を断行すると挨拶に来たのに対しては、高橋はしっかりやりなさいとしか言わなかったのである。

 昭和5年(1930年)1月11日、金解禁は予定通り旧平価で行われる。井上デフレの破壊力は、高橋の心配をも超え、人々の想像を絶するものとなった。円高と厳しい緊縮財政によって、景気は時を追って悪化していった。

 当時の状況を描いた城山三郎の小説『男子の本懐』によると、「都会で職にあぶれた人々は、やむなく郷里へ帰ろうとする。だが、汽車に乗る金さえなく、東海道などの主要街道は、妻子を連れて歩いて帰る姿が目立った」という状況になった。

 昭和6年(1931年)の冷害・凶作が追い討ちをかけた東北地方では、餓死者が伝えられ、欠食児童や子女の身売りが大きな社会問題となった。そのような経済の行き詰まりに直面し、折から起こった満州事変への対応でも迷走した民政党政権は、昭和6年(1931年)12月に閣内不一致で瓦解する。そこで、高橋蔵相の登場ということになったのである。

 蔵相に就任した高橋は、円レートを実力相応のものにし、低金利を実現すれば経済は活性化する。そこまでで自分の役割は終わると考えていた。それは、4年余り前の昭和2年(1927年)、田中義一内閣において、田中首相からの要請で金融恐慌の後始末をするために30~40日という約束で蔵相に就任し、実際に42日間で退陣したのと同じことを考えていたのであった。