宮沢喜一元首相と石橋湛山元首相は基本的な政策姿勢がよく似ていた。
2人とも、外交、安保、憲法に関しては一貫してハト派の立場を貫いたが、こと経済に関しては名うての積極経済、積極財政論者であった。
バブル最中にも経済格差拡大を
懸念していた宮沢喜一元首相
首相になる前の宮沢氏が私にこんなことを言ったことがある。
「われわれ日本人は苦労して『平和』『自由』『繁栄』の3つをほどほどに手に入れた。終戦直後のことを思えば隔世の感がある。これから目指すのは公正さだ」
私が「公正さとは具体的にどんなことですか」と問うと、「何よりも国民生活においての公正さだ」と答えた。当時から経済格差の拡大を懸念していたのだろうか。
ときあたかも90年代初頭のバブルの最中であった。ここで得られた経済果実を国民生活のために使うことに宮沢氏の政策的関心が集中していた。
そして1991年に首相に就任すると、直ちに「生活大国五ヵ年計画」の策定に着手したのだ。
何よりも「国民生活」を優先させた
石橋湛山元首相
石橋氏は昭和21年に、第1次吉田茂内閣の大蔵大臣に起用されて、積極経済、積極財政の戦後路線を敷いた。戦前軍部に屈せずに“小日本主義”を訴え続けた石橋氏は、戦争が終ると日本社会党から熱心に入党・参画することを要請された。だが、外交、安保政策などで通じるところがあっても、経済政策では社会党と同調することが難しい。そして結局、保守政党である自由党を選んで政界入りしたのである。
その石橋氏がついに内閣を組織するに至ったのは昭和31年の暮れだったが、当時「神武以来の人気」と言われたにもかかわらず、わずか2ヵ月で病気退陣の止むなきに至る。誰もが辞職を望まなかったのに「国民生活のため」と言って潔く退いた。自分の病気によって、予算の成立を遅らせてはならないと考えたのだ。