お互いに「沈黙」していても、
コミュニケーションは成り立つ⁉
吉田 この本にも書いたんですけど、コミュニケーションって本来、難しいですよね。人間は、簡単にできそうなことができないと、それを「障害」と呼びます。例えば「歩行障害」とは言うけれど、泳げないことを「水泳障害」とは言いませんよね。泳ぎをマスターするには訓練が必要ですからね。ところがコミュニケーションも、実際には訓練を積まないとうまくならないのに、誰もが自然にできるような誤解があります。だから、「コミュ障」なんて言葉があると思うんです。
岸見 たしかにそうですね。
吉田 さらに言うと、この本を読んだある番組のディレクターから、「別にコミュニケーションなんて、とらなくてもいいんじゃないですか?」とも言われたんです。僕は知人とエレベーターに乗って、1分ぐらい沈黙が続くと、なにか話さなきゃと思ってあせるんですが、彼は「ぜんぜん平気っすよ」とまったく気にしないんです。先生は、コミュニケーションって、人間にとって必要だと思いますか?
岸見 「会話によるコミュニケーションが必要だ」と思うから、ややこしくなるんでしょうね。
吉田 ん? どういうことですか?
岸見 僕が経験した例では、カウンセリングに来た人と2時間近く、一言も話さなかったことがありました。
吉田 ええ! その方は悩みを相談したくて来たんですよね。
岸見 でも、その人が話さなければ、僕から話すことは何もないわけです。患者さんは椅子に座ったまま、じっと無言で2時間過ごしたのですが、結局最後は、「よくわかりました」と言って、帰って行きました。
吉田 えええっ! いったいどういうことですか?
岸見 それも一種のコミュニケーションだと言ってもいいと思うのです。「人が言葉を交わすこと」だけがコミュニケーションだと思うと、たちまちしんどくなる。
吉田 「何かいいこと喋らなきゃ」と思うこと自体が、プレッシャーになるわけですね。
岸見 そのとおりです。だからエレベーターで沈黙に陥ることが、怖いわけですよ。吉田さんの本ではそういう状況になることを「コミュニケーション・ゲームは強制スタート」と呼んでいましたね。
吉田 はい。近い距離に人がいるときに、お互いに黙ったままでいると、きつくなってきます。先生の前に無言で座っていた人もきつかったと思うんですが……。その方は「よくわかりました」と言って帰っていったんですよね。
岸見 沈黙が続いたとしても、お互いがそういう状態を「あり」だと思っていれば、ムリに話をする必要はないのです。