ドイツ経済が、ハイパーインフレーションを脱して相対的安定期に入っていた1925年10月、シュンペーターはボン大学財政学教授として赴任した。4年ぶりの学界復帰である。11月には再婚し、ようやく落ちついた生活をとりもどすことになった。

 ウィーン大学私講師、チェルノヴィッツ大学准教授、同教授、グラーツ大学教授と、旧オーストリア帝国内の大学を移動してきたが、ドイツの大学は初めてである。ボン大学とはどのような大学なのだろうか。

ベートーヴェンの思想を育てたボン大学

 ボン大学の出身者として有名なのは、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770-1827)、ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)、カール・マルクス(1818-1883)、フルードリヒ・ニーチェ(1844-1900)といったところだ。とくにベートーヴェンのボン大学時代は、彼の地の知的風土をよくあらわしている。

 1770年にボンで生まれたベートーヴェンは、22歳でウィーンへ旅立つまで生地ですごした。フランドル生まれの祖父も父親もボンのケルン選帝侯の宮廷音楽家だったから、王様お抱えミュージシャンの家の嫡男だったのである。

 幼年期に父ヨハンからピアノの手ほどきを受けていたが、ケルン選帝侯マクシミリアン・フランツ(★注1)によって1789年、宮廷楽団員に任命される。そしてこの年の5月、18歳でボン大学法学部に入学する。

 ボン大学の前身は啓蒙思想を研究していたアカデミー(1770年設立の学術団体★注2)で、これを1784年に神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が学位を与えうる大学に改組したものである。ヨーゼフ2世はケルン選帝侯マクシミリアン・フランツの兄だ。

 つまり、マクシミリアン・フランツが兄の皇帝を動かして大学に昇格させたともいえよう。大学設立時の学部編成は、神学部、法学部、医学部、哲学部だった。のちに法学部は法=国家学部、そして法=経済学部へ名称変更し、現在にいたる。

 ベートーヴェンが入学してまもない1789年7月14日、フランス革命が起きる。18世紀をとおしてフランス啓蒙思想が市民階層に浸透しつつあった時代である。ついに革命が起き、フランスで王政が打倒されたわけだから、ヨーロッパ中の市民階級の青年は血を沸き立たせたことだろう。

 ボン大学ではアカデミー時代から啓蒙思想や革命思想に関する講義があったというから、ベートーヴェンもフランス革命の思想的な理念である「自由・平等・博愛」に大きな影響を受けた。