1960年代までの高度経済成長が終わり、次第に下降し始めた70年代。「三角大福政争」と呼ばれる、金権・汚職・密約・派閥争いに象徴されるドロドロした政治ドラマが繰り広げられていた。今、戦後史から学び直したい、政治不信の源流とは?

汚職・密約が飛び交う「三角大福」ドロドロ政争

第3回で見たように、日本は1960年代に急激な高度経済成長期に突入した。しかし、1970年代になるとそれも頭打ちとなり、いよいよ下降し始める。この時代、日本の政治はどうなっていたのだろうか。

 1970年代の政治は、「三角大福の政争」の時代だった。つまり佐藤栄作後、田中角栄・三木武夫福田赳夫大平正芳の4人が政権の座を巡って争っていた時代なのだが、ともすれば経済にばかり目がいきがちのこの時代、政治がこんなにドロドロしていたという事実は面白い。

 今回は、踊り場を迎えた70年代、カネと権力と選挙をめぐって派閥同士が水面下で手を握り、裏切り、せめぎ合う、密約や汚職にどっぷりつかった当時の “自民党的な”政争を見ていこう。

壮大なスケールと行動力で実現させた日本列島改造論――田中角栄

田中角栄

田中角栄は、首相になる気満々の人だった。戦時中の1942年、25歳で土建屋を立ち上げ、戦時中軍需で急速に発展した「理研コンツェルン」(戦前理研が形成していた財閥。GHQにより解体)の系列に入り、軍や理研がらみの大事業をいくつも引き受け、大きく財をなす。

 戦後は新潟三区から立候補し、関連企業や理研がらみの組織票にものを言わせて初当選。その後は「公共事業で地元に露骨な利益誘導をする → 見返りに多額の政治献金を得る → そのカネを気前よく派閥の子分にバラ撒く → 総理になる」というベタベタなサクセスストーリーで、佐藤栄作の後継として、見事1972年、内閣総理大臣になった。

 しかし、そんな“金権政治の申し子”みたいな田中だが、国民的人気は高かった。岸・池田・佐藤と三代続いた「いかにも官僚的な首相」の後の“庶民宰相”、高等小学校しか出ていない苦労人、コミカルな動きとモノマネしたくなる独特な口調、人懐っこい笑顔、大胆な発想と行動力、どれも今までの首相になかったものばかりだ。田中は就任早々、支持率62%を叩き出し、世は「田中角栄ブーム」と言っていいくらいの人気だった。

 田中角栄の行動力は素晴らしかった。まず彼は1972年、佐藤栄作の後継を争う自民党総裁選を前に、81人もの大所帯で「田中派」を旗揚げし、数の力で総裁選を乗り切る準備をした。

 同時に『日本列島改造論』を出版し、田中のめざす国づくりの明確なビジョンを発表して、国民の支持を取りつけた。そして田中は首相になり、本当に列島改造に着手した。

 田中のいう「列島改造」とは、地方を工業化することで流出した人口を呼び戻し、そこと東京を高速交通網でつなごうというものだ。これなら過疎と過密を同時解決しつつ、地方を活性化できる。

 とまあ、ここまでは口で言うだけなら誰にでもできるが、田中がすごいのはここからだ。なんと田中はその具体化のため即座に「国土庁」を新設し、そこを拠点に列島改造を進めていったのだ。

 現役政治家が総裁選前に本を書いて自身のビジョンを国民に示し、それを具体化するために中央省庁を新設する――今までこんな行動力のある、スケールのでかい、型破りな総理はいただろうか?

 国民は田中角栄に夢中になり、田中はその人気に後押しされる形で、地方に大規模工業地帯を作り、都市計画や住宅計画を進めさせ、高速道路や新幹線の整備を進めていった。

 しかし、そこにカネの臭いを嗅ぎつけた輩が群がり、「土地投機ブーム」が起こってしまう。つまり、地方の拠点都市を中心に、土地を投機的に買い漁る連中が増えてきたのだ。

 その結果、地価は爆発的に高騰し、そこに折からの石油危機によるインフレも加わって、日本は手のつけられないギャロッピング・インフレ(=駆け足のインフレ)に陥ってしまった。これが“狂乱物価”だ。

「列島改造ブーム」が“狂乱物価”に変わったあたりで、輝かしい日本の高度成長期は終わった。