黄金の昭和30年代、「所得倍増計画」によって一気に高度経済成長を遂げ、「経済大国ニッポン」をつくった一人の男。それが池田勇人である。池田はどのように今の日本を形づくったのか? 東京オリンピックまでの日本の変貌を駆け足で見る。
経済の国へ――池田勇人の所得倍増計画
第4回で見たように、新安保条約の強行採決を経て岸信介が首相を辞任した後、日本は「政治の時代」から、本格的に「経済の時代」へと移行する。
日本はこの時期、“世界の経済大国”としての地位を確立した。そして、そのかなりの部分は、池田勇人の功績だ。
元大蔵官僚の池田勇人は、官僚時代に病に倒れて退職した後、新規採用扱いで再び大蔵省に入省するなど苦労もあったが、最終的には最高ポスト・事務次官まで務め上げた、経済政策のスペシャリストだ。経済事情に明るく数字に強い彼の、経済偏重ともいえる政策や外交努力の数々によって、日本は戦後、驚くほど短期間で一流国家への階段を上ることができたのだ。
「経済成長をめざす首相なんて、普通じゃないか」――今の僕らはそう思ってしまうが、それは間違いだ。実は池田まで、経済政策を全面に押し出す首相なんて、ほとんどいなかったのだ。
「不況でもないのに経済しか見ない首相なんて、どうかしている。政治家は政治をしっかりやれよ」――これが昔の当たり前だった。つまり、あくまで経済は“政治の一部”、日本全体の設計図の一部にすぎず、それらは大蔵省や経済企画庁、あるいは日銀に任せるべき事柄だったのだ。
しかし、池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済をアイデンティティにすべきという明確なビジョンを持っていた。
池田勇人は吉田茂の腹心中の腹心で、「吉田学校」の優等生だ。彼は官僚生活を経て1949年の衆院選で政界入りし、いきなり吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された。そこで経済政策のすべてを任され、その後も大蔵大臣・通産大臣・自民党幹事長・政調会長などを歴任した。そして岸内閣の退陣後、池田は自民党総裁選に打って出て、見事総理の座を射止めた。
その池田が、政策の目玉として打ち出したのが「所得倍増計画」。彼は岸内閣が日米安保という「政治」で討ち死にしたのを目の当たりにし、自身は得意分野の「経済」に活路を見出すことにしたのだ。
所得倍増計画は、一橋大の中山伊知郎教授が1959年に読売新聞に寄稿した「賃金二倍論」を、池田がアレンジして「月給二倍論」としたのが始まりだ。
彼はこのフレーズが気に入り、選挙演説で使いまくった。そして1960年に総理となり、自身の政策として具体化した。その大まかな方針は、1961年から70年までの10年間で、GNP(国民総生産)を13兆円から26兆円に倍増させるという、長期的な経済成長戦略である。
10年でGNPを2倍にする――途方もない夢に聞こえるが、実はそうでもない。幸い日本は、吉田茂や岸信介の努力(つまり安保条約)によって、軍事コストのかからない国になっている。ならその利点を活かして、浮いた金を重化学工業の後押し、社会資本の整備、低金利での企業融資などに回せば、決して不可能な数字ではない。
それどころか、地方・農業・中小企業など弱い産業分野の所得底上げ、人材育成への投資、産業構造の高度化、科学技術の振興、住宅建設、工業用地開発なども行っていけば、十分現実的な数字だ。
軍事費をできる限り節約して、経済で身を立てる――これはまさに、師匠・吉田茂が夢見た「通商国家・日本」だ。池田はその実現に向けて精力的に政策目標に取り組み、経済立国に必要な成長基盤を築き上げた。そしてその結果、日本経済は池田退陣後も成長を続け、わずか4年で名目GNPを2倍増、10年でなんと4倍増を達成したのだ。