派閥と確執の権力ドラマ――大平正芳
福田の後を受けて総理になった大平正芳は、総理になってからはほとんど何もできなかった。大平は池田の側近だった。同じ大蔵官僚出身で、しかも二人とも東大以外(池田は京大、大平は一橋)だったからか、池田は大平をかわいがった。
大平は池田内閣で官房長官と外務大臣を務めた後、池田死後は彼の派閥「宏池会」を引き継いだ。佐藤内閣時代はやや冷遇気味だったが、田中角栄とは気が合い、田中内閣では外務大臣・大蔵大臣と重用された。
そして三木内閣でも大蔵大臣となったが、その頃経済企画庁長官だった福田と経済政策で大きくぶつかり、もともとあった確執をさらに広げた。しかし両者は「三木おろし+大福密約」で手を組み、福田内閣では自民党幹事長となった。そしてその後は、今見てきた通り福田の約束違反を乗り越え、内閣総理大臣に就任した。
しかし、その後は政策どころではなく、日々政争に明け暮れた。石油ショック後に発行した赤字国債の借金返済をめざして消費税を導入しようとしたが、総選挙で国民から総スカンを食らって議席を大きく減らし、党内から責任追及の声が挙がる。だが、大平は退陣要求を拒否したため、再び福田と首相の座を争うことになり、何とか政権維持に成功する。
しかし、1980年5月、福田派はあろうことか社会党から大平内閣不信任決議案が出された日に全員が衆議院本会議を「欠席」し、自民過半数割れから不信任決議は成立する(ハプニング解散)。そして解散総選挙を闘っている最中、大平は心労がたたって亡くなってしまったのだ。
こんなに政治がドロドロした10年間はなかった。三角大福がみんな濃密に関わり合っているのも面白い。当事者たちは大変だったろうし、国民的にも政策不在の日々があるのはよくないことだが、戦後史の中でも、最も日本的な権力ドラマが繰り広げられた時代だった。
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