国民不在の密約政争――福田赳夫

経済成長が止まると政争に明け暮れる!?<br />戦後史上、最もドロドロしていた権力ドラマ福田赳夫

 三木の後を継いで自民党総裁となったのは、福田赳夫だ。福田は東大を出た後、大蔵省にトップの成績で入った超エリートだ。自身がエリートのためか、政界入りした後は、同じエリート大蔵官僚出身の岸信介を好んで岸派に属し、逆に同じ大蔵官僚出身だがエリートではなかった池田勇人や大平正芳を嫌った。そして、60年安保で岸内閣が辞任した後は、事実上、岸派を引き継いで福田派を立ち上げた。

 福田は池田の財政政策を正面から批判しまくったため、池田内閣では出番がなく、佐藤内閣で重用された。

 本来なら「佐藤の次は福田」が順当だったが、「いかにも官僚あがり」が二人続くより、庶民派の田中角栄を望む声が強かった。しかも、福田は自分が後継指名されると思い込んでいたため多数派工作をしていなかったが、田中は着々としていた。その差が現れ福田はまさかの総裁選敗北、田中との間に遺恨が残る(=角福戦争)。

 しかし、その遺恨のある田中内閣で、田中から請われて大蔵大臣を務めた福田は、田中に「列島改造論」を引っ込めさせた上で高度成長後の不況期を「総需要抑制政策」で建て直し、財政手腕の非凡さを示す。

 福田は三木内閣でもその手腕を買われ経済企画庁長官を務めたが、三木政権がもはや風前の灯となった1976年には、宿敵・大平と組んで「三木おろし」を行い、「三木後はまず福田が総理、2年後に大平に譲る」の密約(=大福密約)を結んで、ついに71歳にして、念願の総理の座に就くことができた。

 福田総理の時代には、「日中平和友好条約」の締結や積極的な東南アジア外交を謳った「福田ドクトリン」の発表など、財政よりもむしろ外交面での成果があったが、それよりやはり「大福戦争」のほうが面白かった。

 福田は1978年、「2年後は大平に政権禅譲」の約束を破り、自民党総裁選に再び立候補した。当時の世論は福田の唱える派閥解消に好意的だったため、福田は「民の声は天の声」「世界が福田を求めている」と調子づき、総裁選勝利を確信していた。

 しかし大平は、田中派を味方につけて泥臭く集票工作を進めていたため、結局福田は、大平に大差で敗北してしまう。「天の声にも変な声がたまにはあるな」は、このとき生まれた迷言だ。