戦国の世を終わらせる一歩手前まで来ながら、本能寺にたおれた織田信長。足軽から身を起こし、そして天下人まで昇り詰めることができた豊臣秀吉。2人の違いは何だったのでしょうか? 人類5000年史から生まれた『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。(初出:2016年3月14日)

「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らう徳川」

 江戸時代末期の詠み人知らずの落首(らくしゅ)ですが、三英傑をうまく表現した歌です。戦国の世を終わらせる一歩手前まで来ながら、本能寺にたおれた信長。足軽から身を起こし、そして天下人まで昇り詰めることができた秀吉。この差はどこにあるのでしょうか。

“豊臣秀吉が、織田信長より優れていた点とは?” 歴史に学ぶ「戦わずして勝つ」法【書籍オンライン編集部セレクション】織田信長と豊臣秀吉。2人の英雄を分析することで、「勝つための戦略」が見えてきます Photo: Adobe Stock

“創造者”としての信長

 信長は天才肌・激情型・猪突猛進。
 秀吉は努力家・人情型・熟慮断行。

 どこから見ても対照的な2人ですが、もっと根底的な視点からみれば、信長はその行動様式が遊牧民的で、秀吉は農耕民的です。たとえば信長は、浅井・朝倉氏を亡ぼすや、そのしゃれこうべに金箔を貼って盃とし、祝杯を挙げていますが、これは遊牧民の習慣のひとつです。家臣たちはドン引きしていますが、信長はまるで意に介しません。

 戦の基本理念も遊牧民と農耕民とではまったく違います。遊牧民は敵を根絶やしにするまで戦うことを旨としますが、農耕民は主君さえ倒せばという発想です。その点においても、やはり信長は遊牧民的であり、秀吉は農耕民的でした。

 信長は、伊勢長島を10万の兵で包囲すると、城をひとつ陥とすごとに城内の者すべて、女子どもを問わず皆殺し! 比叡山や石山でも同じような按配でした。こうした信長のやり方は日本人の価値観にそぐわず、当時から非難の的となって、冷酷・非道・残忍・無慈悲……と、その評価は散々となります。

 しかしながら、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉に、「創造者たらんとする者は、まず破壊者でなければならない」というものがあります。

 たとえば「新しい建物」を建てようと思ったら、その前にどうしても「古い建物」を取り壊さなければならないように、新しき時代を創造せんとする者は、まずその前に“旧き時代の遺物”を破壊しなければなりません。

 信長の野望「天下布武」は、この長く続いた戦乱の世(旧時代)を終わらせ、天下統一(新時代)を創造しようとするものです。ゆえに、彼に与えられた歴史的役割は、彼自身が「破壊者」となって“旧き世の遺物”にしがみつく輩を徹底排除することです。たとえ信長が好むと好まざるとにかかわらず。

 彼の一見残忍非道と見える所業も、そうした“大きな視野”から見れば、致し方ない側面もあったのです。

 逆に、それができない者に、“新時代の創造者”たる資格はありません。武田信玄や上杉謙信らが、ともに「戦国最強」と謳われるほどの軍団を擁しながら天下を獲ることができなかった最大の理由がそこにあります。彼らは信長のような「破壊者」になれなかったのです。

「敵の殲滅」が、わが身を滅ぼすことに。

 さて、信長のように「武を以て天下を制す(天下布武)」道を選んだ人物として、中国には項羽(こうう)、ヨーロッパにはナポレオンがいます。この2人もまた、卓越した軍事力で勝利を重ねながら、戦えば戦うほど敵が増え、包囲網が築かれ、味方は消耗する一方で、勝てば勝つほど戦況が悪化していきました。

 事実、天下が目の前にまで迫ったそのとき、信長に生じた一瞬の油断を突かれ、彼は本能寺に散ることになります。本能寺の変の直接の原因は現在に至るまでわかっていませんが、大局的にはこうした信長のやり方に対する不満が方々に拡がり、それが巡り巡って起きたことと言ってよいでしょう。

 信長の場合、「天下布武」のためにはある程度致し方ないとはいえ、やはりこうした「敵を殲滅する」というやり方は、一時的に奏功するように見えても、長い目で見れば、結局我が身を亡ぼすことになる、ということを歴史は語っています。