これは逆に言えば、「会社として、今後あなたにはこんなキャリアを積んでほしい」という願いでもある。ところが、多くの企業でキャリア形成は、それぞれの社員に委ねられている。社内にキャリア形成の道筋がないのだ。意識の高い人は、個人の判断で資格の学校に通ったり、社会人大学院などに通ったりしている。その努力は虚しいものに終わることがある。資格や修士号を取ったからといって、大きな仕事を任されたり、役員などに抜擢されたりする可能性は低い。中間管理職などで定年を迎えることのほうが多い。

 30~50代になって昇格などで負けると、八方塞がりに陥り、リベンジができない状態になってしまいがちなのが日本企業なのである。とりわけ、高学歴でありながら社内で行き詰まったような人は、過去を振り返ることで劣等感を拭い去り、心のバランスを保たざるを得ない。一定の力がありながら埋没している人もいるはずなのだが、今の日本企業の人事構造の中では浮上できないようになっている。

成果主義は「人事評価」であり
「人事の処遇」とはリンクしない

 よく言われる「成果主義」は、1990年代前半の頃に比べ、社員の人事評価を行なう際に成果や実績で判断するウェートが高くなっていることを意味する。はっきり言ってしまえば、これは「人事評価」であり「人事の処遇」とは直接関係ない。「成果主義」のもとで人事評価が高い人がいたとしても、その人が認められ、昇格をするわけではないからだ。人事の処遇、たとえば課長から部長にする、部長を役員に抜擢するといった扱いは、人事評価とリンクしているとは限らない。日本企業の多くは、「実力差」をきちんと反映するようには、組織が十分に設計されていないのだ。

 このままでは、「負けた人」の不満が溜まる。年を追うごとに、同世代の中で役員などに出世する者が現れたり、年下の優秀な人が台頭して来たりする。焦りや不満、コンプレックスはどんどん激しくなる。なんとか自分を大きく見せたい――。バカにされたくない――。現実が自らの要求水準に追いつかないから、「負けた人」は劣等感の塊と化していく。

 筆者の観察では、こうしたタイプは40代になると高学歴層を中心に爆発的に増える。最後に、その一例を挙げよう。

 筆者は2007年、準大手の出版社(社員数300人)で、2人の副編集長(課長級)の愚痴につき合わされたことがある。もう「時効」と言ってもよいので、そのときの状況を書こう。