富美らが知らぬ間に、2人は結婚式場などの予約をしていた。しかし、式を1ヵ月前に控えて「破談」となった。男性の親が強硬に反対したようだ。富美は、このあたりのいきさつについては語らない。

 冴子の結婚について語るのは、家庭ではタブーとなった。50代半ばの今も、独身である。節子の結婚式当日、冴子は式場に現れた。だが、「仕事が忙しい」と30分ほどでいなくなったという。相手の男性に挨拶をすることもなかった。数年後、節子に子どもが生まれた。そのことを知らせても、冴子からはお祝いもなかった。

私が子どもを産んだら
絶対に大学に入れないといけない

 冴子は、小学生の頃から成績がよかった。中学生のとき、英語の成績は1学年400人ほどのなかで、常に1~3番だった。県立の進学校に入り、そこでも英語の成績は1学年450人ほどのなかで、5番以内をキープしていた。全国の模擬試験でも、英語は「成績優秀者」の欄に頻繁に名前が載るほどだった。

 その後、現役で上智大文学部に合格した。大学進学率がぐんぐんと伸びている1970年代後半の頃である。当時、上智大は入学時の偏差値を急激に上昇させていた。しかし冴子は、上智大の看板学部である外国語学部には受からなかった。50代半ばの今でも、人と話すときには卒業大学を「上智大」と誇らしげに口にするが、「文学部卒」とは言わない。「外国語学部に入れなかったことがトラウマになっているのかもしれない」と、富美は見ている。冴子にはこの頃から「学歴病」の影が見えていたと言えまいか。

 冴子の「学歴病」を後押ししたのが、母親の富美だ。1945年の終戦時、彼女は3歳だった。九州の北部で生まれ育った。戦後の厳しい時代であり、家庭に高校に進む経済的な余裕はなかった。中学を卒業し、集団就職で大阪の工場に入社し、寮に住み込み、働いた。

 その後、高度経済成長の時代となる。工場には、ブルーカラーとして働く中卒・高卒の男性が多かった。この男性たちが休憩時間などに不満を述べていたのが、大学を卒業した新入社員たちの扱いだった。

「大卒をどうして優遇するのか?」「どうせ、俺は高卒だしな……」

 その姿を富美は、哀れな眼差しで見ていたという。工場には、大阪大や神戸大、東工大を卒業した男性が数人、配属された。旧帝国大学卒の学生が、「幹部候補」として迎え入られた時代である。3人は大学を卒業したばかりでありながら、役職は課長補佐くらいの扱いだったようだ。昇格は早く、3人は数年勤務しただけで課長になり、本社に転勤となった。富美は、こんなことを語り、振り返る。

「中卒や高卒の男は、嘆いていた。不公平な人事だ、と。私が子どもを産んだら、絶対に大学に入れないといけない、と強く思った」