「今日はどうぞいじめないでくださいね」
『サンサーラ』という雑誌の1993年3月号で対談した時、国会議員になってまもない小池はこう言った。しおらしくして見せるのである。彼女にとって、そうしたしぐさはお手のもの。もちろん、演技は自然で、テクニックであるというような風情は微塵も見せない。
細川護煕と出会い日本新党から出馬
小池は最初、細川護煕がつくった日本新党から出馬したが、彼女を政治の世界に引き寄せたのは『朝日新聞』のアフリカ記者として鳴らし、『朝日ジャーナル』の編集長もした伊藤正孝だった。小池はカイロ大学を出ている。そんな縁で伊藤と知り合ったが、伊藤は『朝日』の鹿児島支局で細川と一緒だった。伊藤の方が先輩である。
「細川と会ってくれないか」
トルコ風呂改称運動やエチオピア旅行、それに日本アラブ協会の再生などで、ずいぶんと世話になった伊藤に頼まれ、細川と会った小池は、そのまま、参議院議員への道を走り出すことになる。
考えあぐねて、ついに決意したことを夜更けの電話で伝えると、伊藤は、「ホッホー、そうか。やってくれるかあ。アッハーハーッ」と笑ったという。
その伊藤に小池は「製造物責任はとってくれますね」と念を押し、それから、迷った時には何度も夜中に電話をしてアドバイスを求めた。
伊藤は1995年に58歳で亡くなった。
多分、伊藤は細川と小池の“蜜月時代”しか知らずに逝ったはずである。亀裂後に相談したら、伊藤は何と言っただろうか。
「損失補填を受けた局に取材に行きました」
私は小池がテレビ東京の「ワールド・ビジネス・サテライト」のキャスターをしていた時、何度か会った。なかなかにスルドイことを言う。
証券スキャンダル発覚の渦中に、一晩でテレビ朝日、テレビ東京、そしてTBSをまわる羽目になったことがあった。彼女の番組を中座してTBSに行った。
あとでVTRを見たら、彼女は、「サタカさんは損失補填を受けた局に取材に行きました」などと言っていた。