フォードシステムの導入

 渡辺の目から見ると、木原の技術ですら不満だった。1枚のブラジャーの縫製全工程を1人の職人が行っていく、文字通り手作業の職人技の世界だったからだ。

 今の体制ではどうやっても大量生産はできない。見ているうちにいらいらしてきた。思わず口調もきつくなる。別に社員でもなく、友人として無料で指導してやっているだけなのだから遠慮がない。

「1本針で2度縫うところを、2本針なら1度で縫えますのに。そんなやり方して儲かってへんのと違いますか?」

 塚本は思わずむっとしてこう言った。

「そない偉そうに言うんやったら、おまえやれ!」

 これで渡辺の入社が決まった。昭和26年(1951年)9月のことである。

室町本社工場での作業風景(1952年頃)

 渡辺が海軍陸戦隊の工場で培ったノウハウは製造部門における生産システムの確立に大いに寄与した。フォードが自動車生産で実現した“フォードシステム”と呼ばれる新しい大量生産型のシステムによって、ブラジャーやコルセットの大量生産が可能となっていった。

 こうして幸一は工場の空気を一変させた。若い縫製工たちは新しい技術を次々に吸収していく。この世界で年数を重ねていると言うだけで大きな顔はできなくなり、ベテラン職工も渡辺の指示に従わざるをえない。

「あんなきつい人かなわん」

 という声も出た。

 製造過程のすべてについて工程分析して細分化され、

「はい、ここからここまでを何秒で縫ってください」

 と各人に割り当て、トイレへ行く時間まで決められたからだ。

「渡辺さんが来てから働いてばっかりでかなん、あんな人やめてほしいわ」

 そんな悲鳴も聞こえてきた。

 そして大量生産体制を支えるべく、大谷ミシン社長の大谷能基から電気駆動の大型ミシンを5台ほど購入した。

 これまでの足踏みミシンとは性能が格段に違う。

 大谷ミシンから社長以下6名が出張してきて組み立てを行う。設置作業は終業後のみ。和江商事サイドで立ち会いをするのは渡辺だ。大規模なものだけに、3日徹夜してようやく工事が完了した。

 大谷ミシンの人間は昼間にわずかな時間ながら仮眠が出来たが、渡辺は昼間も働いている。

 大谷はよく続くものだと感じ入り、部下たちに、

「おまえたち、渡辺さんを見ならえ!」

 と叱咤した。

 組み立てが終わった3日目の早朝、渡辺がやれやれという顔で風呂屋に朝風呂に入りに行ったのを大谷社長は覚えているという。幸一のことを働きすぎのアホな男だと言っていた渡辺自身、猛烈な働き者だったのである。

 その後も大谷と渡辺のコンビで、次々とミシンが増設されていった。

 取引先から工場見学の依頼が入りはじめたのもこのころからである。彼らはその効率的な作業風景に感心し、かつ安心して帰っていった。従業員たちの士気も上がる。

 幸一自身も裁断室の中に入ってコルセットの改良に必死に取り組んだ。こうした姿勢が刺激にならないはずがない。渡辺あさ野という強力な助っ人の協力を得て、彼は生産部門のリーダーとして着実に実績を挙げていった。