言葉が大事なのか
曲や音楽が大切なのか

好きな仕事が「本当の志向性」を体現しているとは限らない「○○をやりたい」という思込みが強すぎて、自ら窮屈な場所へと追い込んでいませんか?

前回から、WILLと原点canの違いを論じています。キーワードは「好きこそものの上手なれ」。「○○をやりたい」という自らの意志はもちろん大切ですが、実は、自分自身の可能性を狭めてしまうことにもつながりかねないのです。人間は思い込みの生き物です。「自分はこうだ」と決めつけてしまって、本当にやりたいことすら見えなくなってしまうものです。

 友人に、私が勝手に「歌舞音曲マスコミ系」と呼んでいる人がいます。仕事はマスコミ一筋、それも活字媒体の人なのですが、最近になって歌舞音曲の趣味が高じて、席亭としても活躍をし始めています。

 聞けば、若かりし頃はミュージシャンに憧れて、次が映画関係、それが大学卒業後、出版社への入社に落ち着いたのだとか。

 彼曰く、「WILLを貫こうとしたのではなく、やれること、ただし、やっていて気持ちがいいこと。ああ、これが好きなんだと思えた方向に進んできたように思う」。

 まさに原点canを大切にして来た人です。これがキャリアの志向性です。志向性とは、人間の意識が何かに注意を向けることを言います。我々が意識をしているという時、それは何かに注意を向けていることです。意志、と言うよりは意識です。意志のように力強く歩み寄るのではなく、自然と引き寄せられる対象です。志向性とはそのような感じのものです。

 その彼は音楽も大好きです。私も音楽が大好きなのですが、よくよく語り合ってみると、2人の間には音楽というものの捉え方に大きな違いがあるということがわかりました。

 つまり、私は音の人であり、彼は言語の人であるという違いです。彼は、書き言葉か話し言葉か歌う言葉かは関係がなく、「言葉による表現」をこよなく愛しているのです。彼にとって音楽とはメッセージそのもののようです。

 メッセージをいかにうまく伝えるかにおいて音楽、つまりメロディーやテンポ、和音が存在するわけです。言うなれば彼にとって、音楽とは言葉によるメッセージの伴奏ということになります。古典芸能の様式も同様にメッセージを送るための媒体です。それらはメッセージを完成させるための道具にすぎないのです。