「お笑いができるなら吉本興業へ。勉強が出来るなら三菱か川重、神鋼もいい。ソロバンが上手なら神戸銀行(現在の三井住友銀行の源流のひとつ)へ。腕っぷしが強いなら上組に。腕っぷしに自信があって頭も良くて、ソロバンが弾けるかお笑いができるのなら“山口組”や」

 大阪に本社を置く吉本興業を除いては、すべて神戸に根付いた全国規模の企業である。もちろん現在では、たとえ冗談でもこのような進路指導は許されないだろう。しかし現在70代の女性が高校生だった昭和30年代後半から40年代初めは、暴力団(ヤクザ)を取り巻く状況が現在とは大きく異なっていた。

 この頃の山口組のトップを務めていたのは、“山口組中興の祖”として名高い三代目組長・田岡一雄氏だ。敗戦の翌年、昭和21(1946)年から昭和56(1981)年までの長きに渡って、全国最大規模のヤクザ組織の頂点に立っていた田岡氏は、同時に、芸能プロモーションや港湾荷役といった事業を手掛ける「実業家」という顔も併せ持っていた。

 田岡氏は実業家としての実績から、「神戸港船内荷役調整協議会委員」という公職にも就いていた。そうした縁もあり、昭和34(1959)年、田岡氏は神戸水上消防署の1日署長も務めている。いわば“町の名士”だ。

「ゆうてもヤクザや。その世界に身を置く人なら怖いやろう。そやけど、山口組さんはその世界では一流や。本物の男やもん。素人(一般市民)を泣かすようなことはせん。警察も役所も当てにならんとき、頼りになったのは山口組さんや」(前出の70代女性)

“ハロウィン組長”が
神戸山口組に行ってしまった

 女性が言う「警察も役所も当てにならない」とは、平成7(1995)年、阪神大震災のあった年、当時、五代目組長だった渡辺芳則氏の陣頭指揮の下、組織を挙げての救援活動を行ったことを指す。

 震災後、避難所で不自由を強いられていた被災民に、いち早く食料はもとより、ミルク、オムツ、生理用品まで届けたのが山口組であることは、今では多くの人が知っている。前出の70代女性が続けて語る。

「震災後、役所はモタモタしてるし、食べ物、飲み物もよう持ってこん。市内はノーヘルの原付が走り回ってる。そんな時、お巡りさんは何も言わへん。不謹慎な言い方やて叱られるかもしれへんけど、あの時、最後に頼れるのは山口組さんなんやなて思うたわ」

 近年では阪神大震災、古くは敗戦後のような混乱期、「法の枠組みを超えた力と発想」で動ける山口組のほうが、警察や行政よりも動きが早かった――というのは、率直な市民目線の感覚だろう。そんな背景もあってか、今回、山口組による“ハロウィン実施”は、神戸市民の間では概ね歓迎ムードだ。