なぜ、徳川幕藩体制が維持されたのか?

 ところが、事は逆方向に動き出した。

 翌十日、徳川慶喜が、自らの新しい呼称を「上様」とすることを宣言した。
 これは呼称の問題であるから、理論的には大政を奉還したことと矛盾することにはならない。
 しかし、言外に徳川政権の実質統治を継続しますよと宣言しているに他ならない。

 徳川慶喜に「辞官納地」を求めた、この小御所会議の時、当の慶喜は幕府軍おおよそ一万と共に二条城にいた。

 一万という軍勢には、強兵で知られる会津兵約二千、桑名兵約一千が含まれている。
 薩摩長州を中心とする討幕派の兵も五千が京に集結しており、山内容堂は、双方が偶発的に衝突する不測の事態を懸念し、朝廷と慶喜に対して「納地」の問題は諸大名会議を開催して幕府と諸大名の分担割合を決めるなどの提案を行い、双方これを受け入れ、慶喜は、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静(かつきよ)を伴い、十二月十二日、大坂へ下ったのである。

 同時に、薩摩長州及び安芸の軍事クーデターという強硬手段に対する土佐藩を中心とする公武合体派の反撥はピークに達し、肥後藩や筑前藩、阿波藩が、三藩に対して御所からの軍勢の引き揚げを要求するに至り、岩倉具視と三藩は、「徳川慶喜が辞官納地に応じれば、慶喜を議定に任命し、前内大臣としての待遇を保証する」との妥協提案をせざるを得なくなったのである。

 ここで、徳川慶喜は更なる反転攻勢に出る。
 十二月十六日、大坂城に米英仏蘭及びプロシア・イタリア六ヵ国の公使を召集し、内政不干渉と徳川幕府の外交権保持を承認させたのである。

 岩倉具視や薩摩長州には、こういう外交はできない。
 更に三日後、慶喜は、朝廷に対して「王政復古の大号令の撤回」を要求した。

 朝廷は遂に、「~徳川先祖の制度美事良法は其の侭(まま)被差置(さしおかれ)、御変更無之(これなく)候間~」云々との告諭を出した。

 つまり、徳川政権による大政委任の継続を承認したのである。
 この告諭では「王政復古の大号令」を取り消すとは言明していないが、実質的に徳川慶喜の要求を呑んだことになる。
 徳川幕藩体制は、維持されることになったのである。