波瀾万丈のベンチャー経営を描き尽くした真実の物語「再起動 リブート」。バブルに踊らされ、金融危機に翻弄され、資金繰り地獄を生き抜き、会社分割、事業譲渡、企業買収、追放、度重なる裁判、差し押さえ、自宅競売の危機を乗り越え、たどりついた境地とは何だったのか。
本連載ではいち早く話題のノンフィクション『再起動 リブート』の中身を、先読み版として公開いたします。
異変──[1993年1月]
「いずみちゃん、いいねー、そのポーズ」
「もうちょっとシャツをはだけてみようか」
「その表情いけてるねえ、サイコー!次はウィンクしてみてよ」
カメラマンの調子のいい掛け声と乾いたシャッター音がスタジオに鳴り響く。アダルト系音声番組の広告制作のため、僕はモデルの撮影現場に駆り出されていた。きわどいショットで男たちの妄想をかき立てる。もとより風俗嫌いだった僕にとって、ピンクチラシが飛び交う世界はまるで異次元のようだった。
これが日本IBMを辞めてまでやりたかったことなのか。欲望渦巻く撮影スタジオを横目に、僕は自分に問いかけた。墨田さんからの依頼を受け、僕たちはメーカーに転身したのだ。それ以降、トップシェアを目指して猪武者のごとく邁進した。
「とにかく前進あるのみだ」
僕は自分にそう言い聞かせた。あれほど嫌っていたアダルト系事業に、いつしか首までドップリ浸かっていた。約一年で月商一億円にまで成長したが、伸び代はまだまだ大きいはずだ。
僕は取引先や銀行に力説した。
「電話情報サービス市場は急成長を続けています。専門雑誌はまもなく国内市場の規模が年1000億円に届くと予想しており、米国でも同様のサービスが拡大しています。パソコンを持っていない普通の人たちでも、電話で簡単に情報を入手できるようになるのです」
1993年といえば、ウィンドウズ95が登場する二年前。個人が気軽にパソコンを持つのはまだ先の話だ。パソコン通信にアクセスするコンピュータ・マニアを除けば、普通の人たちのコミュニケーション手段は電話くらいしかなかった。
だが、現実は甘くなかった。ダイヤルQ2を社会的問題として取り上げる新聞記事も出はじめた。ダイヤルQ2の課金に上限はない。10分で最大1000円もの情報料がかかるため、知らず知らずのうちに驚くような金額になってしまう。全国で課金を巡るトラブルが噴出し、出会い系やアダルト系サービスに対する世間の風当たりは強まっていった。支払いを拒否する利用者も増え、事業者に対する情報料の返還請求が急増した。
消費者離れがはじまっていたにもかかわらず、番組提供を希望する事業者は増え続けた。その結果、雑誌や新聞紙、ポスティングなどの広告が過当競争に陥り、新しく番組をはじめても利用者を確保できなくなっていった。青く広々としていた海が、いつの間にか血で血を洗うレッドオーシャンに変わっていた。事業環境はわずか半年のあいだに激変し、フレックスファームにも暗い影が忍び寄っていたのだ。
ダイヤルQ2は時代の徒花だった。遠からずNTTは一層の自主規制に踏み切るのではないか。そんな疑心暗鬼が当時の業界を覆っていた。
それだけではない。急成長するフレックスファームの舞台裏では、ふたつの深刻な問題が表面化していた。ひとつは既存クライアントからの無理難題。もうひとつは新規クライアントの業績不振だ。
「サーバーの調子が悪いんだよ。とにかく今から来てくれ。タクシーで技術者を派遣できるだろう」
「サーバーが止まって、ちょうどオタクに支払う月額のレンタル料金分損したから、今月は支払えないからな」
電話口に怒号が響く。リスクを回避するためのレンタル契約や保守契約はしていたが、トラブルが発生すれば、そんな約束はおかまいなしだ。大金を稼ぐダイヤルQ2事業者の多くは強気一辺倒で、理不尽な要求は日増しにエスカレートしていった。
ダイヤルQ2番組のピークは深夜であり、僕たちが提供しているサーバーは、真夜中に黙々と稼ぐことが最大の売りだった。しかしサーバーが停止すると、瞬く間に数十万円の売上機会の損失に結びついてしまう。
携帯電話もない時代だ。僕たちは社内の連絡網にポケベルをフル活用し、社員が深夜に自宅でサーバーをリモート保守できるシステムも構築していた。それでも100台を超すサーバーを出荷していると、連日のようにどこかでトラブルが発生する。頻繁に呼び出されるので、24時間体制で社員に張りついてもらったことも、一度や二度ではなかった。これでは現場が持たない。技術者たちは疲弊していった。
一方で、新規クライアントからも苦情が相次ぐようになった。
「番組は立ち上がったけど、想定より売上がだいぶ少ないじゃないか」
「こんなんじゃ商売になるわけないだろ。いったいどうなってるんだ!」
過当競争で新しい番組を立ち上げても新規利用者の獲得が困難になっていた。サーバーや広告の準備があるため、契約締結から番組開始までには三ヵ月ほどかかる。その間も競合番組は増え続け、売上が当初予想を大きく下回ってしまう。売上や利益を保証していたわけではないが、彼らの怒りの矛先は、当然のように僕たちに向けられた。
ダイヤルQ2市場は早くも踊り場を迎えていた。