頼みの綱、日本リースの破綻──[1998年9月]

 危機のまっただ中で、唯一積極的に融資拡大に応じてくれた金融機関があった。日本長期信用銀行傘下のノンバンク、日本リースだ。

 彼らはファクタリングという手法で僕たちの資金需要に応えてくれた。ファクタリングとは企業が持つ売上債権を買い取り、支払いサイトの期日前に入金する仕組みだ。僕たちが営業をがんばって受注すれば、その注文書で日本リースがその売上代金を貸し付けてくれるのだ。

 日本リースはファクタリングとして一億円の信用限度枠をフレックスに用意してくれた。それは僕たちにとって、漆黒の闇に射す一筋の光明だった。これを機に、フレックスファームの借り入れ先は銀行から日本リースに一気に移ってゆく。捨てる神あれば拾う神あり。これでなんとか目先の資金は持ちそうだ。そう思った矢先に、その事件は起きた。

 1998年9月27日、頼みの綱の日本リースが会社更生法の適用を申請し、事実上倒産したのだ。負債総額は約2.2兆円にのぼり、戦後最大の倒産だという。日本リースは総資産で業界二位の大企業であり、まさに青天の霹靂だった。

 日本リース破綻によって、フレックスファームはたちまち連鎖倒産の危機に追い込まれた。この時点で日本リースからの借入残高は、すでに信用枠いっぱいの一億円近くあった。早晩この一億円は返済を余儀なくされるだろう。取引銀行は資金回収に懸命で、追加融資など考えられない。またしても、僕たちは谷底へ突き落とされたのだ。

 その日の夕方、僕と福田はオペラシティの会議室にいた。何冊もの経理資料バインダーを囲みながら、僕たちは苦渋に満ちた顔つきで向かい合っていた。

「これから数ヵ月で、日本リースからの借入金、約一億円を返済しなくちゃいけない。あらゆる可能性をあたっているけど、どの銀行も貸出どころか回収で手一杯だ。突然のことで、金融業界全体がパニックになっているんだ」

 僕が暗澹たる表情で報告すると、福田もつらそうに答えた。

「ああ、そうだろうな。日本リースの倒産で、現場の社員たちにも動揺が広がってるよ」

 もう打つ手はない。ベンチャーキャピタルの資金で息を吹き返したものの、僕たちには未だに大きな過去の負債がある。それを返済する術がなくなったのだ。

「今まであらゆる手段を使って生き延びてきたが、この必要資金を調達するのは不可能だと思う。日本の金融システムの屋台骨に限界が来たんだ。どうあがいても、もう打つ手はない」

 僕は、資金繰り表のエクセルシートを福田に渡し、観念したように深いため息をついた。

「そうか――」

 福田も、それだけ言うのがやっとだった。

 そのシートには、社員に支払う給与、銀行に支払う返済金、さらに社会保険に税金、多くの取引先に支払うべき金額。そして月末の総計のところに数千万円のマイナスの金額が書かれていた。返済不能額は毎月増えてゆく。僕たちはこれから、この人たちに大変な迷惑をかけてしまうことになるだろう。

「ダメかもしれないな、もう」

 僕はそう答えるのが精一杯だった。今まで、あらゆる手段を使って窮地を乗り越えてきたフレックスファームだが、ついに幕切れの時が来たようだ。

「実は昨日、若菜から電話があったんだ」

 ふいに、福田が僕の妻の話を切り出した。

「若菜からお前に?どうしたんだろう。なんだって?」

「今度こそ、徹さん、死ぬかもしれないって……。すごく心配してたよ」

 この時点で、僕の資産はもちろんのこと、斉藤家の財産もほぼフレックスファームにつぎ込んでいた。さらに銀行の貸しはがしに耐えかねて、若菜の実家、石村家からも緊急で2000万円を借り入れており、それが僕の心に重くのしかかっていた。そのこともあり、僕の態度や表情に尋常ならざる窮迫を感じたのだろう。わざわざ福田に電話をしてくるとは、よほどのことだったに違いない。妻にも心配をかけ通しの、あまりにも出来の悪い夫だった。

「そうか。まあ、死んだほうが楽だからな」

 そんな言葉があっさりと口から出してしまう。それほど僕は退路を塞がれていた。もはや無知の恐怖はない。浮足立った気持ちもない。どうすることもできない奥深い絶望が、僕の心を黒く覆っていた。

 この金融危機のさなか、僕たちにお金を提供する金融機関は皆無だった。銀行自身が倒産の瀬戸際に立たされているのだ。来る日も来る日も断られ、僕はもう金策に疲れ果てていた。

「手がないな。もう――」

 力なく僕がつぶやくと、福田は何も言わず、ただ目を赤くしていた。

 僕と福田には、この火事場を乗り越える知恵はなかった。もう何も残っていない。残された時間もあとわずかだ。このパズルはどうやっても解けない。待っているのは、フレックスファームの倒産と僕個人の破産、そして家族が住む家と土地の競売だ。

 追い詰められた。絶体絶命だった。万策尽きたと思ったその時に、思いがけなく突破口が開けたのだ。(つづく)

(第20回は2月1日公開予定です)

斉藤 徹(さいとう・とおる)
株式会社ループス・コミュニケーションズ代表 1961年、川崎生まれ。駒場東邦中学校・高等学校、慶應義塾大学理工学部を経て、1985年、日本IBM株式会社入社。29歳で日本IBMを退職。1991年2月、株式会社フレックスファームを創業し、ベンチャーの世界に飛び込む。ダイヤルQ2ブームに乗り、瞬く間に月商1億円を突破したが、バブルとアダルト系事業に支えられた一時的な成功にすぎなかった。絶え間なく押し寄せる難局、地をはうような起業のリアリティをくぐり抜けた先には、ドットコムバブルの大波があった。国内外の投資家からテクノロジーベンチャーとして注目を集めたフレックスファームは、未上場ながらも時価総額100億円のベンチャーに。だが、バブル崩壊を機に銀行の貸しはがしに遭い、またも奈落の底へ突き落とされる。40歳にして創業した会社を追われ、3億円の借金を背負う。銀行に訴えられ、自宅まで競売にかけられるが、諦めずに粘り強く闘い続けて、再び復活を遂げる。2005年7月、株式会社ループス・コミュニケーションズを創業し、ソーシャルメディアのビジネス活用に関するコンサルティング事業を幅広く展開。ソーシャルシフトの提唱者として「透明な時代におけるビジネス改革」を企業に提言している。著書は『BE ソーシャル 社員と顧客に愛される 5つのシフト』『ソーシャルシフト─ これからの企業にとって一番大切なこと』(ともに日本経済新聞出版社)、『新ソーシャルメディア完全読本』(アスキー新書)、『ソーシャルシフト新しい顧客戦略の教科書』(共著、KADOKAWA)など多数