波瀾万丈のベンチャー経営を描き尽くした真実の物語「再起動 リブート」。バブルに踊らされ、金融危機に翻弄され、資金繰り地獄を生き抜き、会社分割、事業譲渡、企業買収、追放、度重なる裁判、差し押さえ、自宅競売の危機を乗り越え、たどりついた境地とは何だったのか。
本連載では話題のノンフィクション『再起動 リブート』の中身を、先読み版として公開いたします。
貸しはがし──[1998年3月]
ビジネスが順調に展開する一方で、フレックスファームを取り巻く経営環境は厳しさを増していた。前年に起きた金融危機、日本経済をどん底に陥れたカタストロフィの影響だった。
きっかけとなったのは、1997年11月3日、三洋証券の経営破綻だ。証券会社に対する免許制度を施行してから初となる準大手証券会社の倒産劇によって、金融市場には大いなる衝撃が走った。
2週間後の17日。今度は北海道拓殖銀行の経営破綻が発表された。拓銀といえば、小規模ながら都市銀行のひとつに数えられ、北海道経済を支える重要な金融機関だった。
さらに一週間後の24日、日本四大証券会社の一角、山一証券が自主廃業を発表し、日本は未曾有の金融危機に突入した。「社員は悪くありませんから」と泣きながら訴えた野澤社長の記者会見が、繰り返しニュースで報じられた。
3社が倒産に追い込まれたのは、バブル崩壊で発生した回収不能債権が、年月を経て雪だるま式に膨らんで暴発したからだ。地下深くに押し込められていた経営破綻のマグマが、勢いよく噴き出した瞬間だった。
銀行の抱える不良債権は100兆円を超えるとも推測された。多くの金融機関が国から公的資金の注入を受け、金融庁の厳重な監視下に置かれることになる。その結果、金融機関は融資に対して過度に慎重になり、中小企業に対する「貸し渋り」や、すでに貸した資金を強引に回収する「貸しはがし」が横行した。
どの銀行も貸出資産の圧縮が至上命題となり、信用収縮で資金難に陥った中小企業の倒産が相次いだ。経営の行き詰まりや失業を原因とした中高年の自殺者も急増し、深刻な社会問題となった。「貸し渋り」「貸しはがし」という言葉が、当時の流行語になったほどだった。
アダルト系との訣別が功を奏し、新たなビジネスの芽が孵化していたフレックスファームにも、金融危機による貸しはがしが暗い影を落とすようになった。ベンチャーキャピタルからの増資で急場をしのいだとはいえ、ダイヤルQ2時代に積み上がった負債は重くのしかかっており、運転資金の多くを銀行に頼っていたからだ。
「すみません。この融資の継続はできなくなりました」
銀行の担当者は暗い顔をしながら、残酷な言葉を口にした。
「一度も返済を怠らず、ずっと継続していただいたお取引じゃないですか」
僕は融資を継続してもらおうと必死だった。資金繰りに窮しながらも、金主である銀行への返済は遅滞なく行っていた。万難を排して銀行との信頼関係を構築してきたのに、それが一瞬で崩れ去ってしまったのだ。
「ご存じのように、金融庁からの審査がきわめて厳しくて。支店としては継続したいのですが、本部から指示がとにかく苛烈なんです。いったんすべて回収させてください」
寝耳に水の通告に、言いようのない憤りがこみ上げてきた。
「この2000万円は今までも問題なく継続していた融資じゃないですか。今月も当然それを前提で資金繰りをしています。この借り入れができなければ外注費が支払えなくなるでしょう。経営が傾いたら他の返済もできなくなりますよ。元も子もないじゃないですか」
「毎月、業績報告をいただいていますので、御社の事情はよく承知しています。それだけに私もつらいんです。外注さんに支払い分割の相談などはできませんか」
現実味のない無責任な物言いが、僕の怒りをかきたてた。
「今はどこも貸しはがしで青息吐息です。それは銀行さんが一番ご存じでしょう」
「申し訳ありませんが、本部の決定です。なんとか他行さんに相談して、資金繰りの穴を埋めてください」
その他行からも冷酷な通知は届いていた。多くの銀行で、半年ごとの借り換えのたびに厳格な審査が入るようになり、契約更新できなくなるケースが相次いだのだ。
ビジネスは成長していたが、過去の負債はまだ多く残っている。資金繰りに余裕などまったくない。今、資金がストップすれば、人件費や外注費が払えなくなり、事業継続が困難になる。フレックスファームの行く手に、ふたたび不吉な暗雲が垂れ込めた。