二人が座っているのは『金沙江酒店』。金沙江ホテルの一階にある西菜(洋食)レストラン。

 当時の上海で近代的なホテルとして有名なのは、シェラトンホテルと開業したばかりのヒルトンホテルであった。レンガ作りの低層建築しかない街の中で、シェラトンの曲線美を活かした威容は遠く離れていても見ることが出来るランドマークであり、ヒルトンの高層ビルは瓦礫の中にそびえるバベルの塔のようだ。これらは西側陣営の資本が紅い中国へ侵入した記念碑でもあった。

 その二つとは比較にならない小ぶりなホテルであったが、この金沙江ホテルも香港資本で建てられた当時流行りの中外合作で、経済開放の恩恵の一つだ。国営ホテルにはない清潔さとサービスを売り物にしていた。

 大学の裏通り、金沙江路にこのようなホテルがあると知った時には、ジェイスンと肩を叩き合って喜んだ。もちろん互いに貧乏学生であるため頻繁に通うという訳にはいかなかったが、学生食堂のお決まりの中華の味付けと、ガリッと音を立てて歯を砕くのではないかと恐怖しながら食べる小石入りの米飯に嫌気が差してくると、どちらからともなく誘い合ってここへやって来るようになった。

 ジェイスンはサーロインステーキ、隆嗣はビーフストロガノフを注文するのが定番だった。このホテルのもう一つの魅力は、まっとうな煙草が買えることである。

 もちろん中国製の煙草は路上どこでも売っているが、その辛い味にはどうしてもなじめなかった。このホテルの売店では、外国製の煙草がきちんとビニールで閉じられてカートン売りされている。

 隆嗣は留学中に二つだけの贅沢を自分に許した。月に2回までのこの洋食と、売店の棚に並ぶ洋モクの中で一番安いカールトンの煙草を吸うことだ。財布との兼ね合いで、それも決して1日1箱を超えてはならないと自身に厳命していた。

 慌しく最後の肉片を口に収めたジェイスンが話を戻す。

「さあ、参謀会議の再開だ。立芳ちゃんに紹介してくれるよう頼んでくれよ」

「難しいなあ。知っているだろ、彼女は結構お堅いんだ。そんな話に乗ってくれるとは思えないよ」

「じゃあ、グループ交際にしよう。彼女に何人か友達を誘ってもらおう、こちらも留学生の中から頭数を揃えてさ」

「パーティーかい? クリスマスはまだまだ先だよ」

「いや、学校でパーティーなんかやっても監視の目が光っていて窮屈だ。みんなで南京路やバンド(外灘)へ繰り出すというのはどうだい。上海の街を案内してくれとか言って頼んでさ。それだと好みのレディーと仲良くなれたら、すぐに二人だけで抜け出せるし」

「君の企画力と想像力には脱帽するよ。まあ、とにかく立芳に話だけはしてみるよ」

 ジェイスンをいなすため、その場をごまかすつもりで安請け合いした。

 しかし毎日のように結果を尋ねてくる彼の執念に根負けした隆嗣は、いつもの長風公園で立芳と会った時に話を切り出した。すると、彼女は意外にも前向きに応じてくれた。

「面白そうね。外国の人と直接交流して、色々と話をしてみたいと言っている友達はたくさんいるわ。声を掛けてみる」

 国際交流という学術の場と勘違いされては、ジェイスンのような男を連れて行くのに躊躇いがあるが、立芳の友達と会えるということに興味も湧いた。立芳も同じキャンパス内にある学生宿舎で暮らしているとはいえ、周りの目を気にして、いつも学校の外へ出て二人だけで会うようにしていたので、彼女の友達とは会ったことがなかったのだ。